年間第6主日の福音と勧めのことば
2022年02月13日 - サイト管理者♰主の平和
お元気でお過ごしでしょうか。
教会に集うことはできませんが、祈りのうちに繋がっていたいと思います。
どうぞご自愛の上、お過ごしください。
■京都みんなで捧げるミサ 年間第6主日のミサの司式は大塚司教様です。
■2021年度 京都司教区オンライン聖書講座 DVD 頒布のご案内(聖書委員会)
昨年のオンライン聖書講座で配信された動画がDVDで見られます。
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福音朗読 ルカによる福音(ルカ6章17節、20~26節)
[そのとき、イエスは十二人]と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から〔来ていた。〕
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
「貧しい人々は、幸いである。富んでいるあなたがたは、不幸である」
今日の箇所はマタイの山上の説教に対して、ルカの平地の説教といわれる箇所です。マタイ福音書は、ユダヤ教からキリスト者になった人々宛てに書かれたと言われていますから、イエスさまを新しいモーセとして描いていきます。ですから「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くによって来た(マタイ5:12)」という書き出しで始まります。確かに、その姿は旧約のモーセを思わせます。しかしルカでは、「イエスは彼ら(弟子たち)と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった(6:17)」と始まります。その姿は、モーセのような偉大な預言者として上から教えるというのではなく、低みに立つイエスさまの姿です。そのように書くと、イエスさまは神さまなのにわたしたちのところまで降りてこられたとか、イエスさまの謙遜の姿であるというふうに考えがちです。なぜかというとわたしたちは、神さまは上におられるというふうに考えているからです。それは、わたしたちがこの世界の物事をすべて、上下、大小、多少で捉えようとしているからです。ですから当然神さまは上におられて、人間界に人間となって天から降りてこられたと考えます。謙遜もそのように身を低くすることだと考えます。そもそも上下、大小、多い少ないを決めているのは誰かといえば、人間です。だから山上の説教とか、平地の説教とかいうふうに言うのでしょう。
山上の説教では、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた」とありますから、話される対象は弟子たちであることが分かります。それに対してルカでは、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子たちとおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気を癒していただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々も癒していただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気を癒していたからである(6:17~19)」と書かれており、イエスさまが話しておられる対象は、様々な苦悩や病を抱えて日々の生活に喘いでいる人たちでした。その人々に対して、「貧しい人々は幸いである…今飢えている人は幸いである…今泣いている人は幸いである…」と言われるわけです。マタイでは、「心の貧しい人は幸いである」と言われている箇所です。わたしたちはその表現、言い方に慣れてしまっていますが、少しわが身を振り返って見ると、自分が苦しんでいるとき、病気のときにお見舞いにこられ、「これも神さまからのお恵みですよ」とか、「あなたは幸いな人です」とか、誰かから言われたら、腹が立ってカチンとくるのではないでしょうか。
イエスさまは決して、貧しいことや病気、困苦欠乏がよいと言われたのでありません。また、「心の貧しい人は幸い」というときによく説明されるような精神論を説かれたわけでもないと思います。イエスさまの意図はどこにあるのでしょうか。イエスさまは何ができるとかできないとかではなく、ただルカで述べられているような病人や悪霊に取りつかれている人、罪人とみられている人々、様々な苦しみ痛みを抱えている人々、女性、子どもたちとともに、とにかくまず一緒にいたいと思われたのだということだと思います。わたしたちは、直ぐに救いだとか、癒しだとかを考えます。もちろん、イエスさまは神さまですから、病人を癒したり、悪霊を追い出したりしておられたのでしょう。しかしイエスさまがまず第1にしておられたことは、自らが小さなものとして彼らとともにいることだったのではないでしょうか。わたしたちは自分が苦しんでいるとき、その苦しみはなくならなくても、誰かが一緒にいてほしいと思うのではないでしょうか。ただ手を握ってくれるだけでも、体をさすってくれるだけでもいいと思わないでしょうか。また大切な人が苦しんでいるとき、わたしが代わってあげることはできなくて、何もできなくても一緒にいたいと思うのではないでしょうか。イエスさまご自身も同じであったのではないでしょうか。イエスさまご自身が小さい方、小さい神さまでいらっしゃって、天から降りてきて人間となって、人間を救い上げるような力強いメシアタイプの神さまではなかったのだと思います。
しかしただ小さい神さまといっても、大きいと比べて小さいという意味ではなく、大きい小さい、上下、多い少ないというような枠組みや基準ではなく、いつでもどこでも誰とでもともにおられる神さまであるというということです。でも、特に弱く苦しんでいる人とともにおられる神さまであるということではないでしょうか。弱く貧しい人というのは、自分が望んでそうなったのではなくて、強いもの豊かなものから貧しく小さくされたということなのです。そして彼らは、どのようにしてもその貧しさ、小ささから抜け出すことはできないのです。イエスさまは、決してその小ささ、貧しさがよいと言われたのではなく、ただ彼らとともにいることしかできなかったということではないでしょうか。かといって、イエスさまは貧しい人々とともにおられるけれど、豊かな人を否定し、そのような人たちはダメだと言われたのでもないと思います。イエスさまの思いは、すべての人とともに等しくあることです。しかしそれを妨げている人間のあり方、貧しさ豊かさ、飢え満腹といった格差や区別を作り出している人間のあり方に問題提起していかれました。それが人間の思いであったり、社会の構造的なシステムであったり、制度であったり、規則であればそれらを相対化し、神さまの思い、イエスさまの願いを中心とする世界の到来を告げ知らせ、いのちがけでその世界を目指されたということだと思います。それが神の国と言われ、今日の福音のなかで、その神の国は先ず、小さく貧しくされた人たちのものであると言われたのだと思います。