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教会からのお知らせ

四旬節第5主日の福音と勧めのことば

2022年04月03日 - サイト管理者

♰主の平和

高野教会のお庭の桜も満開になっています。
桜をバックにしたマリアさまは、いつにもまして美しく、そして悲しく見える気がします。
先週からミサが再開されました。感染防止対策の上、お越しください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

■4月のミサの予定は以下の通りです。いずれも10時からです。
ご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
聖木曜日(主の晩さんの夕べのミサ)のみ18時からで、地区に関係なく、どなたでも与ることができます。
また、いつもはミサのない第2週ですが、4月は受難の主日に当たっていますので、今月のみミサがあります。

4月
3日㊐  AC地区 四旬節第5主日    10:00
9日㊏  AC地区 受難の主日のミサ   10:00
10日㊐ BD地区 受難の主日      10:00
14日㊍ どなたでも(地区別なし)主の晩さんの夕べのミサ 18:00    
16日㊏ BD地区 復活の主日のミサ   10:00
17日㊐ AC地区 復活の主日      10:00
23日㊏ AC地区 復活節第2主日のミサ 10:00
24日㊐ BD地区 復活節第2主日    10:00
30日㊏ BD地区 復活節第3主日のミサ 10:00

地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

■ミサ中の聖体拝領の行列は、外側通路より後ろに回り、自動消毒器で手指の消毒をして、消毒液をよく刷り込み、必ず手を乾かしてください。前後の間隔をとりながら1列に並んで、急がず前にお進みください。お足の不自由な方やご無理な方は、聖体奉仕者が出向くこともできます。ご遠慮なく臨機応変に対応してくださいますようお願いいたします。C・D地区の方は今までと動き方が変わりますのでご注意ください。

■京都みんなで捧げるミサ 四旬節第5主日のミサの司式はユン神父様です。
受難の主日のミサ配信はお休みです。聖なる過越しの3日間の配信は行われます。

■「ウクライナ危機人道支援緊急募金」のための募金箱を、ミサの前後に聖堂後ろに置いています。この募金は、カリタスジャパンを通して、ウクライナとその周辺国で行われる人道支援活動のために活用されます。ご協力をお願いします。

京都教区正義と平和協議会 学習会のご案内です。

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ8章1~11節)

[そのとき、]イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい

今日の聖書の箇所は、姦通の罪を犯した女の話です。朝早くから神殿の境内でイエスさまが教えておられると、律法学者とファリサイ人が姦通の現場で捕まえた女性をイエスさまのもとに引き立てて、真ん中に立たせます。姦通は悪いことに違いありませんし、申命記によれば男女ともに死罪となっています(22章)。この場合、男性はどうなったのかという疑問が残りますが、今日は罪というものをどのように捉えていくかということを考えてみたいと思います。

今日の場面に出てくる、律法学者やファリサイ人は、「この女は姦通をしているときに捕まりました。このような女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」としつこく問い続けます。彼らの目的は、イエスさまを訴える口実を見つけるためでした。その彼らの前提は、無意識に自分たちは罪を犯さないという立場に立っているということです。その彼らに対してイエスさまは、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、先ず、この女に石を投げなさい」といって、罪を自分の問題として考えなさいと問いを投げかけられました。多くの場合、わたしたちは自分のことを棚上げにして物事を話します。また、わたしたちは罪を犯さないこと、罪を犯さなくなることが、信仰生活で大切なことであり、進歩であるとも考えています。いずれにしても罪という問題は、わたしたちに付きまといます。自分のことを棚上げにしているファリサイ人や律法学者は、一生懸命に律法を学び、罪を避け、どのようにすれば律法を正しく守れるか研究し、実践してきたユダヤ人たちです。いわゆる熱心なユダヤ教の信者さんです。

それでは、そもそも何のために律法を守る必要があるのでしょうか。律法を守って、正しい生活をし、罪を犯さないようにし、神さまに義と認められるためでした。それでは、神さまに義とされたいと思っているのはどうしてでしょうか。それはわたしの救いのためです。救われたいと思っているのは誰でしょうか。わたしです。どこまでいっても、義とされたいとか、救われたいとか思っているのはわたしなのです。神さまに義とされて、わたしが救われて、天国に行くことが目的なのです。こんな浅ましい、自分勝手な目的がどこにあるでしょうか。それなら、自分の欲望を満たしているのと何も変わりません。このようなわたしが、神さまから義とされることなどあるでしょうか。どこまでいっても、自分のことしか考えられない愚かなわたしです。このような天国行きをまじめに教えている宗教があるなら、こんな自己中の宗教はありません。それはインチキです。

しかし、実はこれが人間の現実の姿なのではないでしょうか。今日の第2朗読の「わたしには…キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります(フィリピ3:9)」と訳されている箇所は、新しい共同訳聖書では「わたしには…キリストの真実(信仰)による義、その真実(信仰)に基づいて神から与えられる義があります」と訳されています。以前は、「わたしがイエスさまを信じる信仰によって」義とされるのだと訳してきました。しかし、新しい訳では「イエスさまの真実(信仰)によって」義とされるのだと正確に訳し直しました。つまり、教会は長い間、わたしがイエスさまを信じるという信仰心が、わたしを義とすると考えていたということです。つまり、わたしが頑張って信じれば、わたしは義とされると教えてきたのです。これなら、自分に罪がないと言って、姦淫の女に裁きを要求したファリサイ人と律法学者と同じです。わたしたちは、わたしが頑張って信じたら、頑張って犠牲をして、善行をして、頑張って反省して、教会に行ったら何とかなるとでも思っているのでしょうか。まったくの勘違いです。わたしたちが義とされるのは、イエスさまの真実、つまりイエスさまの死と復活以外にはあり得ないのです。わたしのなかに、自力で義とされるようなものは何もないのです。

そもそもわたしたちが罪を犯さないとしたら、それはたまたまの偶然であって、わたしたちの努力の結果でも信仰深さゆえでもないのです。わたしたちは状況が変わってしまえば、どのようなことでもしてしまうような不安定なものでしかないのです。わたしは人を殺めることなどありませんといっても、一度戦争が起こってしまえば、殺す側にも殺される側にもなってしまうのです。状況が変われば、盗む側にでも盗まれる側にでもなるのです。わたしたちはたまたま日本に生まれただけであって、ロシアやウクライナに生まれていたらどうなっていたか分からないのです。

親鸞は、「わがこころのよくて、殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人千人を殺すこともあるべし」と言い、人間の現実を見抜いています。わたしたちが罪を犯さないとしたら、それはわたしが善人であるからでも、信者あるからでもないのです。たまたま、犯さないでいただけに過ぎないのです。状況が変われば、何をしてしまうか分からないのがわたしです。

イエスさまは人間となられたのですから、この人間の不安定さを他の誰よりもご存じでした。だから、イエスさまはこの女を罪に定めようとはされません。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と。人を断罪し、罪に定めることは簡単です。でも、誰がそれをできるというのでしょうか。問題は罪があるか、ないかではありません。わたしたちが何であっても何でなくても、わたしたちはイエスさまの真実(信仰)によって、すでに贖われたものなのです。今日は、わたしたちの罪という現実を通して、わたしたちを呼びかけておられるイエスさまの真実を味わっていきたいと思います。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。