受難の主日の福音と勧めのことば
2022年04月10日 - サイト管理者♰主の平和
高野教会のお庭の桜は、美しく散り始めました。
新年度が始まり、新たな生活をスタートされた方々のために、心を合わせて祈ります。
ミサは再開されましたが、コロナの感染者はまた増加傾向のようです。感染防止対策の上、お越しください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
■4月のミサの予定は以下の通りです。いずれも10時からです。
ご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
聖木曜日(主の晩さんの夕べのミサ)のみ18時からで、地区に関係なく、どなたでも与ることができます。
また、いつもはミサのない第2週ですが、4月は受難の主日に当たっていますので、今月のみミサがあります。
10日㊐ BD地区 受難の主日 10:00
14日㊍ どなたでも(地区別なし)主の晩さんの夕べのミサ 18:00
16日㊏ BD地区 復活の主日のミサ 10:00
17日㊐ AC地区 復活の主日 10:00
23日㊏ AC地区 復活節第2主日のミサ 10:00
24日㊐ BD地区 復活節第2主日 10:00
30日㊏ BD地区 復活節第3主日のミサ 10:00
地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原
■ミサ中の聖体拝領の行列は、外側通路より後ろに回り、自動消毒器で手指の消毒をして、消毒液をよく刷り込み、必ず手を乾かしてください。前後の間隔をとりながら1列に並んで、急がず前にお進みください。お足の不自由な方やご無理な方は、聖体奉仕者が出向くこともできます。ご遠慮なく臨機応変に対応してくださいますようお願いいたします。C・D地区の方は今までと動き方が変わりますのでご注意ください。
■京都みんなで捧げるミサ 受難の主日のミサ配信はお休みです。聖なる過越しの3日間の配信は行われます。
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■「ウクライナ危機人道支援緊急募金」のための募金箱を、ミサの前後に聖堂後ろに置いています。この募金は、カリタスジャパンを通して、ウクライナとその周辺国で行われる人道支援活動のために活用されます。ご協力をお願いします。
■京都司教区オンライン聖書講座のご案内です。
http://www.kyoto.catholic.jp/new/seisho/2022kyoto_seisho.pdf
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ルカによる主イエス・キリストの受難(ルカ23章1~49節)
[そのとき、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは]立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。 そして、イエスをこう訴え始めた。
「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、
イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。
しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、 ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。 祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。 ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 (†底本に節が欠落 異本訳)祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。
しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。
このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。
ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。
「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。 そのとき、人々は山に向かっては、
『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、
丘に向かっては、
『我々を覆ってくれ』と言い始める。
『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
そのとき、イエスは言われた。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言った。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
イエスは大声で叫ばれた。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日から聖週間が始まります。聖週間は、イエスさまのエルサレム入城を記念することから始まります。今日の受難の主日は、イエスさまのエルサレム入城によって、イエスさまの受難が始まったことを思い起こすために受難の朗読が行われます。今年はC年ですから、ルカ福音書から朗読が行われます。
今年の受難の朗読の特徴は、基本的にはマルコ福音書に従っていますが、ルカ固有のイエスさまのことばや状況説明をかなり挿入したことです。マルコ福音書では、ピラトの尋問に対して「それは、あなたが言っていることです」と答えたことと、十字架上の最後の言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」だけの寡黙なイエスさまを描いています。それに対して、ルカの福音では、ピラトへの答えだけを残し、ルカ固有のイエスさまのことばを新たに挿入しています。
ルカ福音書は、旧約聖書をまったく知らない人々に宛てて書かれています。ですから、マルコやマタイのように、旧約聖書の知識がある人たちであれば、イエスさまが悲痛とも絶望とも取られかねない「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上のイエスさまのことばであっても、詩編22からの祈りであると理解することができました。しかし、まったく旧約聖書を知らない人たちにとっては、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、福音宣教をしていくときに、その創始者の言葉として、ルカはふさわしくないと考えたのではないでしょうか。ですから、ルカはマタイ、マルコが描かなかったイエスさまの内面の描こうと思ったのではないかと思います。
しかし、あのような絶句に満ちた苦悩の中で、イエスさまが自分を十字架に釘付けにするものに対して、人間的に温かなゆるしの感情をもっていたとか、十字架上でも隣の強盗のことを気遣うことができるぐらい平和であったと考えるのは、少々無理があるように思います。イエスさまは神さまでしたから、それが可能であると言えばそこまでですが、イエスさまはわたしたちと何も変わらない普通の人間でした。ですからイエスさまが悲痛とも絶望ともいえる状況のなかで、内面は平和を味わっておられたと説明することは、神学的には可能かもしれませんが、生きた現実としての人間を見たとき、それが可能であるいうことを強調する必要はないと思います。おそらく初代教会では、自分たちが信じるイエスという方が、絶望のうちに死んでいかれたということは受け入れ難かったのではないか思います。
人間の心情として、自分たちが信じる救い主は、自分が苦しいなかでも女性や子どもたちのために心を砕き、自分を十字架に掛ける死刑執行人のためにゆるしを願い、隣の強盗に声を掛け、父である神への信頼のうちに息絶えていく、美化された、スーパーヒーロー的な姿を描きたいというのも分からないではありません。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け」。「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。「父よ、わたしの霊をあなたにゆだねます」。そこには、いつくしみぶかいイエスさまの姿がわたしたちの胸に迫る感じがあります。
しかし、その一方で、マルコが描くように、イエスさまがわたしたちと同じように、悩み苦しみ、疑い、絶望のうちに死んでいかれたという姿に何かほっとするのはどうしてでしょうか。もし、わたしたち自身が苦しみの最中で、また死に際して、イエスさまのように、自分を苦しめたものにゆるしを願い、周りの人々に配慮し、優しい言葉をかけ、神さまへの大きな信頼のうちに死んでいけるかといえれば、その確証はないのではないでしょうか。もちろん、そのような最期を迎えられたら、神に感謝でしょう。それならわたしたちの手柄ではなく、イエスさまの働きでしょう。死に際にあたふたとして、死にたくないと言って怒鳴り散らし、どこまでも自分にしがみつくようなわたしが現実かもしれません。そのようなときに、ああ~イエスさまも苦しんで絶望のうちに亡くなっていかれたのだと言われたら、何と慰めになるでしょう。イエスさまも立派な聖人君主ではなくて、わたしたちと同じだと思えるのです。イエスさまはわたしたちとともに、地獄の苦しみの底まで堕ちてくださったのだということを知ることこそ、わたしたちにとって救いではないでしょうか。
ヘブライ人への手紙のなかで次のような言葉が残されています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられたのです(5:7~9)」。今日のルカの受難を読むとき、大切なのはどのように死ぬかではなくて、どのようなものであっても死そのものが尊いということだと思います。これは、死を擁護しているわけでも、それがよいと言っているのでもありません。生命体は必ず個体としての終わりを迎えます。人間は自分の個体を維持させることについてはエゴイスティックに見えますが、すべての生物は必ず死にます。そして、そのことによって、いのちを別の個体にバトンタッチするという利他的な行為をしているのではないでしょう
か。改めて、そのようなことを少し味わってみたいと思いました。