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教会からのお知らせ

復活の主日の福音と勧めのことば

2022年04月17日 - サイト管理者

♰主の平和

主のご復活おめでとうございます!
ご復活のイエスさまの祝福によって、世界に平和が訪れますように心を合わせて祈ります。

■4月のミサの予定は以下の通りです。いずれも10時からです。感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

4月    
17日㊐ AC地区 復活の主日      10:00
23日㊏ AC地区 復活節第2主日のミサ 10:00
24日㊐ BD地区 復活節第2主日    10:00
30日㊏ BD地区 復活節第3主日のミサ 10:00

地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

■京都みんなで捧げるミサ 聖なる過越しの3日間の配信が行われます。
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ20章1節~9節)

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスは死者の中から復活されることになっている

「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」と今日の朗読個所で記されています。そもそもわたしたちが毎日曜日にお祝いしている、主の復活とは何でしょうか。今日の福音のなかでは、イエスさまを葬った墓が空になっていたということしか書かれていません。わたしたちがもっているイエスさまの復活のイメージは何でしょうか。イエスさまが死者の中からよみがえって生きておられるとか、もはや死ぬことがない生命に入られたとか、いろいろな言い方がされています。しかし、イエスさまの受難、死、復活という出来事について、わたしたちが人間として確認できるのは、イエスさまが十字架の上で亡くなられて、遺体を取り下ろして、墓に葬ったという所までです。その後の出来事について、人間の言葉では説明することができないものであると思います。

実際にイエスさまが復活されたことによった、何かが変わったでしょうか。わたしたちはイエスさまが人類の罪、わたしの罪を背負って、十字架に掛けられたということを知っています。しかし、イエスさまが十字架の上で亡くなった次の日も、同じように太陽は昇り、人々の苦しみや病、死が取り去られるということはありませんでした。それではイエスさまの復活によって、何が変わったのでしょうか。現実には何も変わらなかったのではないでしょうか。

そもそも、わたしたちは神さまについてあたかも分かったように話していますが、人間の意識の世界の中で、神さまについて理解したり、把握したりできるものは何もないのです。地球の46億年の歴史を1年間で言い表すと、イエスさまの誕生は、12月31日の11時59分46秒の出来事なのです。そしてわたしたちが立っているのが、新年の1月1日なのです。わたしたちの人生は瞬きの一瞬でしかありません。地球の歴史の46億年、さらに宇宙の138億年の歴史を導いて来られた方、大宇宙、大生命である方について、わたしたち人間に何が分かるというのでしょうか。その測り知れない無限、無量、無辺、無碍である方が、具体的なイエスという人間となって、わたしたちとともに生き、人々が嫌悪し、軽蔑し、憎む者に進んで近づき、その大いなるいのちの愛の片鱗を垣間見せてくださったのです。わたしたちはそのいのちの愛の片鱗をイエスさまの姿のうちに、特にその十字架のうちに垣間見、そしてその愛はわたしたちの人生、生活のすべてを巻き込んで、永遠のうちに溶け込んでいったということ、それがイエスさまの復活ということではないでしょうか。

所詮人間の言葉などでは言い尽くせない、大きないのちの流れにわたしたちを目覚めさせ、わたしたちもまたその大きないのちの流れの中にあることを伝えようとされたのではないでしょうか。しかし、わたしたち人間は皆自分本位で、自分の立場からしかいろいろなことを考えることしかできません。だから、その大いなるいのちである方が、実際に人間となって、わたしたちに具体的に目に見えて、耳に聞こえて、触れることができるようになって、わたしたちのところに来てくださいました。そして、具体的にわたしたちとともに生老病死を生き、ご自身が苦しむことによって、実はわたしたち自身はすでに大いなるいのちの流れの中にあるということを知らせてくださったのではないでしょうか。それでも、わたしたちは自己本位という無明の闇に捕らわれていて、その大いなるいのちの思いなど到底理解することはできないままでいるのです。

どのように言葉によって説明したところで、主の復活について、またイエスさまご自身の思いについて、わたしたちが完全に理解することなど不可能です。わたしたちはただイエスさまのその大いなる光の前に頭を垂れることしかできない、それが主の復活を記念するということではないでしょうか。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。