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教会からのお知らせ

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)の福音と勧めのことば

2022年04月24日 - サイト管理者

♰主の平和

アレルヤ、アレルヤ!
教会のお庭の主役が、桜からハナミズキへとバトンタッチをし、一気に新緑の季節へと移り変わっています。
復活の喜びの中にも、コロナやウクライナを心にとめ、祈りのうちに繋がることができますように。

■復活祭大塚司教メッセージ
http://www.kyoto.catholic.jp/shikyo/2022fukkat.pdf

■教皇フランシスコ、2022年復活祭メッセージ(ローマと全世界へ)
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/04/18/24537/

■京都みんなで捧げるミサ 
https://youtu.be/UEoPYxDgaQ0
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■京都教区時報5月号が教区のHPに掲載されました。
http://www.kyoto.catholic.jp/jihou/534.pdf

■4月、5月のミサの予定は以下の通りです。いずれも10時からです。感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

4月    
23日㊏ AC地区 復活節第2主日のミサ 10:00
24日㊐ BD地区 復活節第2主日のミサ 10:00
30日㊏ BD地区 復活節第3主日のミサ 10:00

5月
1日㊐ AC地区 復活節第3主日     10:00
7日㊏ 復活節第4主日のミサなし
8日㊐ 復活節第4主日のミサなし
14日㊏ AC地区 復活節第5主日のミサ  10:00
15日㊐ BD地区 復活節第5主日のミサ 10:00
21日㊏ BD地区 復活節第6主日のミサ 10:00
22日㊐ AC地区 復活節第6主日のミサ 10:00
28日㊏ AC地区 主の昇天のミサ     10:00
29日㊐ BD地区 主の昇天のミサ    10:00

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ20章19~31節)

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

八日の後、イエスが来られた

今日の福音は、イエスさまが復活された日曜日の夕方、またその八日後の夕方の出来事が描かれます。復活の日、つまりペトロたちが空の墓を見た朝の夕方の出来事が描かれていきます。その弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。

このときの弟子たちの状況はどのようなものだったのでしょうか。彼らは、イエスさまがエルサレムで輝かしい勝利を納め、ローマ軍を駆逐し、エルサレムが再建されることを望んでしました。いわゆる政治的クーデターのようなものを考えていたのでしょう。だから、その計画が成功したあかつきには、自分たちも政権の座に着き、イスラエルを支配する側になることを夢見ていたのでしょう。エルサレムへ向かう途上でのペトロとのやり取り、ヤコブとヨハネの願いなどはすべてその野心を示しています。しかし、イエスさまは弟子たちの望みに応えるどころか、まったく無力になり、ただ引き回されるだけの囚人となり、挙句の果てはローマ兵によって見せしめのために十字架に付けられてしまいました。計画は失敗に終わり、弟子たちはイエスさまを裏切って、見捨てて逃げてしまい、エルサレムの自分たちの隠れ家に閉じこもっています。

彼らの心にあったのは、自分たちのリーダーであるイエスさまを裏切ってしまったとか、見殺しにしてしまったという後悔より、テロの首謀者として死刑になったイエスさまの仲間として、自分たちに追手が及ぶかもしれないという恐怖と保身であったと思います。それが、「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と言われることだと思います。ただの保身だけに走った弟子たちの姿、それが戸に鍵をかけて閉じこもるということだと思います。戸の鍵は内側からかけますから、基本外側から押し入ってくることはできません。

この状態というのは、わたしたちも人生のなかで大なり小なり体験することではないでしょうか。決して誰も開けることができないように、誰も鍵を開けて入ってくることがないように自分の内側から鍵をかける、まさに自分で自分を封印するようなものです。それは裏切りであったり、誰にも言うことができない秘密であったり、誰にも知られたくない過ちであったり、まちがって知ってしまった他人の秘密であったり、自分ではどうすることも出来ない課題であったり、取り返しがつかないようなことであったり、自分がお墓までもって行くしかないようなことを誰しもが抱えているのかもしれません。多くの場合、本人の責任ではなかったり、本人の責任であったとしてもどうということでないことだったり、たとえ変えられない過酷な過去であっても、それを受け入れて歩んでいく以外に方法がないことだったりしても、そのとき、わたしたちは自分のうちに鍵をかけて閉じこもってしまうしかできなくなってしまいます。そのことから考えると、弟子たちは自分たちの保身のために閉じこもっているのですから、たかが知れています。彼らは、イエスさまを裏切ったことも仕方がなかったのだという言い訳程度で、良心の呵責も感じていなかったかもしれません。その程度の弟子たちだったのかもしれません。

わたしたちの不安や恐れ、絶望がどのようなものであったとしても、その程度の問題ではなく、自分の心に鍵をかけて閉じこもっていること、そのことが問題なのです。わたしたちは防衛本能としてそのようにしてしまったり、本人にその自覚がないこともあります。そのようなわたしたちの心の真中に、イエスさまが来られます。わたしたちの家の戸、わたしの心の戸は、誰も外から押し破って入ってくることはできないのです。しかし、イエスさまはわたしたちの心の戸を無理やりにこじ開けて入って来られたのではなく、わたしたちの心の中に直接に来られます。イエスさまだけがそれがおできになるのです。これが弟子たちの復活体験でした。イエスさまは、わたしたちに同じようにすることがお出来になります。わたしたちの心の中に泥足で入ってくるのではなく、わたしたちの心の襞に触れるように、素足となって来られます。そして、「あなたがたに平和があるように」と言われます。これがイエスさまのなさり方です。そして、わたしたちをわたしの心の闇の淵から、わたしの地獄から、イエスさまが戸の鍵を開いて、わたしを大きな外の世界へと連れ出してくださいます。どのようにしてかは、その人とそのときによって違いますから、こうであるとは言えません。しかし、それがわたしたちにも起こる復活体験ではないでしょうか。イエスさまだけがわたしを訪れてくださる、そしてわたしとともに生きておられる、そしてわたしたちを大きな世界へと連れ出してくださる、そのことを今日は味わったみたいと思います。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。