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教会からのお知らせ

復活節第4主日の福音と勧めのことば

2022年05月08日 - サイト管理者

♰主の平和

「青葉若葉に 風かおりて~♪」と歌いたくなる季節となりました。
聖母月、心を合わせ、聖母マリアに世界の平和のために取り次ぎを祈り続けたいと思います。

救いの源である神よ、まことの過越の小羊であるイエスは、すべての羊にいのちを与えるために自ら苦しみをお受けになりました。主の過越をともに祝うわたしたちを、キリストの愛といのちで満たしてください。(復活節第4主日の集会祈願より)

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

復活節第4主日のミサ 司式:大塚司教様
https://youtu.be/xkvhaAoXNYg 

■復活節第4主日は世界召命祈願の日です。
https://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_syumeinohi.php

■5月ミサ予定 
感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

5月
14日㊏ AC地区 復活節第5主日のミサ  10:00
15日㊐ BD地区 復活節第5主日のミサ 10:00
21日㊏ BD地区 復活節第6主日のミサ 10:00
22日㊐ AC地区 復活節第6主日のミサ 10:00
28日㊏ AC地区 主の昇天のミサ     10:00
29日㊐ BD地区 主の昇天のミサ    10:00

■本日は、花井神父様の90歳のお誕生日です。花井神父様のご健康のために、どうぞお祈りください。

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ10章27~30節)

[そのとき、イエスは言われた。]「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のヨハネ福音書の中で、イエスさまは良き牧者として、わたしたちに永遠のいのちを与えると言われます。

そもそも、永遠のいのちとは何なのでしょうか。キリスト教ではどうも、死後のいのちのことだとか、死んでから永遠のいのちに入るのだとか、よいことをした人は報いとして永遠のいのちを受け、罪を犯した人は罰を受けるというような単純な考え方をしているのがほとんどではないでしょうか。確かにマタイ福音書25章31節からを読むと、そのように理解できなくもありません。しかし、その箇所はあくまでも神の国のたとえとして語られているだけであって、そのまま事実として読む必要はありません。

ところがヨハネ福音書に中には、永遠のいのちについての定義と思われる箇所があります。そこでは「永遠のいのちとは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(17:3)」と言われています。その通りに読むと、永遠のいのちは、唯一の真の神とイエスさまを知ることそのものが永遠のいのちであると言われています。永遠のいのちは、わたしたち人間の業、行いへの報いとして与えられるものではありません。つまり、何かの結果であるとか、また何かの行いへの報いとして与えられるものでもなく、また死後のいのちでもありません。

唯一の真の神とイエスさまは、わたしたちが生まれる前から、わたしたちが信じる前から存在しておられます。ですから、永遠のいのちは、ご褒美のようにわたしたちに与えられ、わたしが手に入れるようなものではなく、わたしたちが信じたから与えられるというようなものでもないことが分かります。わたしが信じるか信じないかというような人間の思いや行いと関係なく、唯一の真の神とイエスさまは存在しておられるからです。つまり、唯一の真の神とイエスさまそのものが、永遠のいのちなのです。だからわたしたちは、すでに永遠のいのちである真の神とイエスさまをただ知ることだけなのです。もう少し、簡単に話してみましょう。

当たり前のことですが、わたしたちはいのちというものを意識する前に、いのちを受けて生まれてきます。いのちはわたしたちに与えられたものであり、両親や家族、環境、国などもすべて与えられて、わたしたちはそれを引き受けて生まれてきます。ところが与えられたものをすべて引き受けていたわたしが、言葉を覚えて「わたし」ということを言いだすとややこしくなっていきます。与えられたものをすべて引き受けていたはずなのに、わたしという人間になった途端に、「わたしがする」、「わたしのものだ」と言い始めます。与えられたいのちの上に「わたし」ができたにもかかわらず、「わたしのいのちだ」と言っていのちに執着するようになります。わたしの両親、わたしの家族、わたしの国など、すべてわたしを中心にして与えられたものが逆転してしまいます。すべてのものがわたし以外のところから与えられたのにもかかわらず、「わたしのものだ」と主張し、わたしの基準で考えた人生設計をしようとしますが、何ひとつわたしの思う通りになりません。それで怒ったり、嘆いたり、苦しんだり、悩んだりするわけです。

そのわたしたちの人生の中でいちばん思い通りにならないものは、わたしの思いとわたしのいのちです。腹を立ててはいけないと思っていても腹が立ちますし、信じなければならないと思っても、疑いの心が湧いてきます。1日でも自分のいのちを延ばしたいと思っても、自分の力で短くすることも長くすることも出来ません。ですから、もしわたしの心やいのちが自分の思い通りになるなら、それを手に入るためにわたしたちは何でもすることでしょう。基本的にわたしたちは、わたしの思い通りになるものを「わたしのもの」であると言います。永遠のいのちも、わたしが何とかすれば手に入るかもしれないと、たやすく勘違いしてしまうのでしょう。

永遠のいのちは、わたしたちが手に入れることなど出来ないし、またその必要もないのです。永遠のいのちは、すでにわたしたちに先立ってあり、わたしたちに与えられた神のいのちなのです。つまり、永遠のいのちは、わたしたちに先立ってある唯一の真の神、イエスさまであり、そのいのちを「わたしのいのち」であるとわたしたちが勘違いしているすでに与えられているいのちのことなのです。わたしのいのちだと主張しても、そのいのちは一切わたしたちの思うようにはなりません。それが永遠のいのち、神のいのちであって、わたしのいのちではない証拠なのです。わたしたちが気づかなければならないのは、永遠のいのちはわたしたちに与えられた唯一の真の神とイエスさまであることをよりよく知って、イエスさまとの親しい交わりに深く入っていくことなのです。それが生きるということなのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。