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教会からのお知らせ

聖霊降臨の主日の福音と勧めのことば

2022年06月05日 - サイト管理者

♰主の平和

6月に入りました。高野教会のお庭のバラが、美しく咲いています。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
寒暖差の大きい日が続いていますので、どうぞご自愛ください。

すべての人の父である神よ、きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。聖霊を世界にあまねく注いでください。教会の誕生にあたって行われた宣教の働きが、今も信じる民を通して続けられ、豊かな実りをもたらしますように。(聖霊降臨の主日の集会祈願より)

■6月ミサ予定 
感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

6月
5日㊐ AC地区 聖霊降臨の主日のミサ  10:00
11日㊏ ミサなし
12日㊐ ミサなし
18日㊏ AC地区 キリストの聖体のミサ  10:00
19日㊐ BD地区 キリストの聖体のミサ  10:00
25日㊏ BD地区 年間第13主日のミサ  10:00
26日㊐ AC地区 年間第13主日のミサ  10:00

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

聖霊降臨の主日のミサ
https://youtu.be/mZXCF_K-FC0

■毎年6月は、京都・チェジュ交流月間で、6月の第1日曜日は、京都・チェジュ交流の日です。姉妹教区縁組を通して、韓国と日本の歴史と文化の相互理解を進め、両国を始めアジアと世界の友好と平和のために奉仕できますようお祈りと献金をお願いします。
https://cbe448b2-93d4-4814-819d-1fde23287f13.filesusr.com/ugd/8117f0_45bfa8528c9e451baa98ab5a0f21f779.pdf

■京都教区高校生会より、夏の集いの案内が届いています。7月30日(土)名張教会にて行われますので、該当の高校生にお知らせください。詳しくは教会のポスターをご覧ください。

■6月15日、大塚司教様が司教叙階25周年を迎えられます。コロナ下ですので、信徒の参加できる特別の行事はありません。京都教区内の小教区では、6月26日の主日ミサで、司教様のために感謝を込めてお祈りを捧げることになっています。それに加え、高野教会では、皆さまからのお祝いのメッセージを司教様に差し上げたいと思っています。詳しくは、ミサの時のお知らせ、または一斉送信メールをお読みください。

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ14章15~16、23b~26節)

 [そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。 あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は聖霊降臨の主日です。教会は今日までを復活節と呼び、今日が終わると、復活のろうそくを片付けます。

今日の福音の中で、聖霊の派遣とわたしたちの魂のうちにおける神の内住、現存ということが述べられます。また、今日の第1朗読の中で、エルサレムでの五旬祭の出来事が描かれています。ルカは、イエスさまの過越しが、ユダヤ教の過越祭の時期に行われたのと合わせて、聖霊降臨を、イスラエルの民のシナイ山での律法授与の記念である五旬祭に起こった出来事として描いています。これはルカの解釈であって、聖霊降臨が一体なんであるかは、実のところは分かりません。おそらく史実として言えることは、イエスさまの死後、弟子たちは十字架にかかって亡くなったイエスさまが生きておられ、しかも弟子たちとともに歩み、弟子たちを支え、弁護し、働いておられることを、また弟子たちの魂のうちに内住、現存しておられることを体験したということだと思います。それは、イエスさまの生前の思い出が、弟子たちのなかに残ったということではありません。思い出ということであれば、わたしの中にある記憶なので、時間とともに薄れていきます。しかし、イエスさまの現存は薄れていくどころか、生き生きとしたリアリティを持った現実として弟子たちに体験されたということだと思います。

そのことをイエスさまの方から見ると、弟子たちとともに生き、現存するということであり、それはイエスさまの復活、弟子たちへの聖霊の派遣によって実現していきました。弟子たちの方から見ると、確かに亡くなったイエスさまが、弟子たちのなかで単なる過去の思い出としてではなく、生き生きと生きておられ、弟子たちを愛し、ゆるし、弟子たちとともに宣教し続けておられる働きとして体験されたということだと思います。そして、その働きは、イエスさまの弟子たちに留まらず、すべての生きとし生けるものに対して、その真実に目覚めさせる働きとして、等しく働いているということが明らかにされた出来事、それが聖霊降臨であったと言えばいいでしょう。第1朗読の聖霊降臨の記述をみると、世界中から来ているありとあらゆる文化や言葉を異とする人々が、皆等しく福音を聞いた出来事として描かれています。

生命体がこの地球に誕生して38億年の年月を重ねてきましたが、現在の地球はあらゆる多様な生命体で溢れています。今、地球には800万種類ほどの生命がいると言われています。わたしたちにとって都合の悪いと思われるゴキブリや蚊などはいなくてもいいと思うかもしれませんが、他の生物にとっては餌であったり、住処を提供してくれたりとか夫々役割があります。わたしたち人間は、今、自分たちが生命体の頂点に立っているかのように錯覚していますが、それは多種多様な生物がいてくれたからわたしたち人間は生きてこられたわけであって、生態系の支配者でも、主宰者でもありません。そして人間という種の中にも、いろいろな文化や風土の違う民族が存在していて、世界は成り立っています。今行われている戦争や環境破壊、人権を認めないような考え方などは、人間がいずれ生命体として絶滅危惧種となってしまう危うさを抱えているということではないかと思います。自分と自分の周りの一部の人しか認めないような考え方は、やがて人類に破滅をもたらします。

人間の生物としてもつ大きな特徴は、社会性です。つまり、人と人とは協力しながら社会を作っていく生き物であるということです。人間は争い、傷つけあう弱い存在です。しかし、わたしたちは愛する力ももっているはずです。愛するとは、すべてのものが等しくあるということなのです。この人は愛するけれど、あの人は愛さないというのなら、それは愛とは言いません。それは好き嫌いというものです。愛の特徴は等しさであるとしたら、この地上は800万種もの多種多様な異なった生命体に溢れているということをどのように捉えればいいのでしょうか。好き嫌い、善悪というのは、どこまでいっても人間の都合でしかありません。しかし、この多様性の根底に流れるものは、大きないのちであり、このいのちであるということにおいて、わたしたちは皆等しいと言えるのではないでしょうか。いのちに上等も下等もありません。そのような区別をしているのは、人間の都合です。そのためには、先ず、わたしがわたしのことを固有な存在であることを認めることができなければ、他のものや人を固有な存在として認めることはできないのではないでしょうか。この夫々の多様性を認めるための前提は、わたしたちは自他ともにすべての生きとし生けるものは、同じ大きないのちを生きているものとして等しいことを知ること、体験することです。

十字架のヨハネは、「愛の特徴は、愛されるものを愛するものと等しくする」と言います。ですから、旧約聖書の「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」というのでは不十分で、先ず「自分を正しく愛すること」が必要であると言えます。その根拠は、生きとし生けるものに等しく注がれるイエスさまの愛であり、その愛を受けるのに上も下も、高い低いもありません。夫々の多様性に応じて、皆夫々一杯に受ける、その意味で皆等しいということなのです。でも、すべては異なっています。ひとつとして、同じものはないのです。こうして、わたしたちは、固有な自分を正しく愛することができるとき、わたしたちは、他者や他のものを正しく愛することができるのです。

聖霊降臨の出来事は、皆が夫々の文化や習慣、民族の違いをそのままにして、等しくイエスさまの福音を聞くということでした。これこそイエスさまが、太陽はすべてのものに注がれていると言われたことであり、注がれるという側面から見ると平等ですが、光を受けるものは皆違っています。キリスト教は、安易な平等を説く宗教ではありません。皆で一緒に○○しましょうというのなら、小学校の今週の目標と同じです。すべてのものを支えているものはいのちであり、いのちはすべて平等である、しかしすべて異なっているのだということにわたしたちを気づかせ、立ち帰らせる働きが、聖霊降臨の出来事であるということができます。

金子みすゞの「鈴と小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」という、お互いの差異を認めながら、しかしともにある世界、これが本来の世界なのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。