キリストの聖体の福音と勧めのことば
2022年06月19日 - サイト管理者♰主の平和
梅雨に入りました。
寒暖差の大きい毎日、体調にご留意され、お元気でお過ごしください。
恵み豊かな父よ、御子キリストは、その死を記念するとうとい秘跡を教会に残してくださいました。主のからだを受け、救いの力にあずかるわたしたちが、主の死を告げ知らせることができますように。(キリストの聖体の集会祈願より)
■6月、7月のミサ予定
感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
6月
18日㊏ AC地区 キリストの聖体のミサ 10:00
19日㊐ BD地区 キリストの聖体のミサ 10:00
25日㊏ BD地区 年間第13主日のミサ 10:00
26日㊐ AC地区 年間第13主日のミサ 10:00
7月
2日㊏ AC地区 年間第14主日のミサ 10:00
3日㊐ BD地区 年間第14主日のミサ 10:00
9日㊏ ミサなし
10日㊐ ミサなし
16日㊏ BD地区 年間第16主日のミサ 10:00
17日㊐ AC地区 年間第16主日のミサ 10:00
23日㊏ AC地区 年間第17主日のミサ 10:00
24日㊐ BD地区 年間第17主日のミサ 10:00
30日㊏ BD地区 年間第18主日のミサ 10:00
31日㊐ AC地区 年間第18主日のミサ 10:00
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
キリストの聖体のミサ
https://youtu.be/MMGB7QxvvuE
■京都教区高校生会より、夏の集いの案内が届いています。7月30日(土)名張教会にて行われますので、該当の高校生にお知らせください。詳しくは教会のポスターをご覧ください。
■北村神父様の昨年の勧めの言葉が本になりました。ご希望の方は、ミサの時に受付で600円でお分けします。
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福音朗読 ルカによる福音(ルカ9章11b~17節)
[そのとき、イエスは群衆に]神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日読まれる聖書箇所は、イエスさまの宣教活動の中での一コマが描かれています。イエスさまの神の国の宣教は、言葉と業によって行われました。イエスさまの活動によって神の国が始まっていますが、それは具体的な出来事によって人々に示されていきます。神の国は決して、抽象的な教えや理論、綺麗事ではないからです。イエスさまは人々の具体的な要求にただ応えるのではなく、深みにおいて、正しく応えていかれます。ここでは、イエスさまは人間の食べるということに着目され、パンの増やしを行われました。
人間にとって最も基本的なことは、当たり前ですが生きていくことです。生きていくということは、食べるということです。食べるということは、他の生き物を殺して食べていくことに他なりません。日本では古来、殺生ということが厳しく戒められていましたから、明治になるまでは日本人の多くは、穀物、野菜、魚を主食とし、肉は食べませんでした。ですから食べるための家畜というものは、ほとんどいませんでした。馬や牛は飼われていましたが、それは食べるためではなく、農耕や運搬、交通手段として使われていました。魚は食べていましたが、必ず放生会と言って、捕獲した魚を池に放し、殺生を戒める宗教儀式が行われていました。それに対して、ユダヤ教やヨーロッパ世界では古くから、動物を家畜化して、それを人間の食べ物として生活してきました。今でこそスーパーに、あらゆる肉や魚がトレイにはいって売られていますが、昔の人たちは、それらの生き物を殺して食べてきたのです。ですから、日本では食事のときに、必ず「いただきます」「ごちそうさま」と言って、いのちをいただくことに感謝し、いのちへの礼を尽くしてきました。おそらく食前、食後の「いただきます」「ごちそうさま」をするのは日本だけでしょう。海外で、俯いて食前の祈りをしていたら、ウェイターの人に「どうされましたか」と声を掛けられたという笑い話があるぐらいです。もちろん、キリスト教で食前後の祈りはあるのですが、神さまに向けられた感謝の祈りであって、自分が今いただくいのちに対する礼ではありません。しかし、日本人のいただきますは、いただくいのちへの礼です。このように生きてきたわたしたちは、イエスさまがわたしたちの食べ物、飲み物になってくださったことの意味がすぐに分かります。ですから、ミサが感謝の祭儀であることも、抵抗なく受け入れることができるでしょう。わざわざ、ミサをイエスさまの十字架の生贄の再現であるとまで言わなくても容易に理解できるのです。
それに対して、ユダヤ教やヨーロッパ文化の中にいる人たちにとっては、イエスさまがわたしたちのための食べ物、飲み物となってくださったことを、非常に具体的に、強烈に表現しなければ、その意味が分からなかったのだと思います。食べ物は、神さまが人間の便宜のために与えたという思想が根底にありますので、生き物、動植物への感謝という発想はほぼありません。昔、ミサは無血祭と言われていました。イエスさまはゴルゴダの丘で血祭りにあげられて、実際に血を流してわたしたちを贖い、わたしたちの身代わりとなっていのちの源となられたのだ、それを十字架の生贄、犠牲、日本的にいうと人身御供となられたのだと言ってきました。それに対して、ミサは無血祭と言われ、イエスさまが血を流すことなく捧げられる犠牲であると説明されてきました。そこまで言わなければ、ユダヤ人や欧米の人たちにとっては、食べるということのもっている深みがピンとこなかったのだと思います。
今日、いのちの源であるイエスさまが、わたしたちを生かし支え続けておられることを改めて味わいたいと思います。イエスさまは、愚かで物分かりの悪いわたしたちのために、具体的な食べ物、飲み物となってまでご自身を与え続けておられます。そのことにわたしたちを気づかせ、目覚めさせていただくために聖体の秘跡を定めてくださったのです。聖体が、わたしを生かし支え続けておられること自体はそうですが、目に見えないもっと大きな現実に心の目を向ける必要があります。つまり、イエスさまはわたしたちを、聖体によってしか生かすことができないという意味ではなく、わたしたちはもっと大きなイエスさまといういのちそのもので生かされ、支えられているということをきちんと押さえておくことが必要だと思います。過去の教会では、司祭=ミサをおこなう人という理解がなされて、信徒としてミサに与ることがすべてであるかのように教えられてきました。そして、コロナ禍の中で、わたしたちはミサについて改めて考え直す機会が与えられたと思います。教会の中でミサを行うことは大切なことに変わりはありませんが、イエスさまご自身がその生涯を通して、神さまがご自分を与え尽くすというあり方をもって、わたしたち人間を生かし続けておられるということに気づかせていただくこと自体が本質的なことで、福音ではないでしょうか。そのイエスさまのあり方、働きをきちんと見つめていくことが、わたしたちのあり方、生き方に影響をもたらすのだということだと思います。そこに、キリスト教の真骨頂があると言えばいいでしょう。