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教会からのお知らせ

年間第13主日の福音と勧めのことば

2022年06月26日 - サイト管理者

♰主の平和

梅雨はどこへ行ったのやら、厳しい暑さが続いています。
高野教会のお庭のぶどうの実が、ずいぶん大きくなってきました。
「キリストはぶどうの木~♪」と口ずさみながら、成長をご覧ください。
どうぞ熱中症にお気をつけてお過ごしください。

■6月、7月のミサ予定 
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

6月
25日㊏ BD地区 年間第13主日のミサ  10:00
26日㊐ AC地区 年間第13主日のミサ  10:00
7月
2日㊏ AC地区 年間第14主日のミサ  10:00
3日㊐ BD地区 年間第14主日のミサ  10:00
9日㊏ ミサなし
10日㊐ ミサなし
16日㊏ BD地区 年間第16主日のミサ  10:00
17日㊐ AC地区 年間第16主日のミサ  10:00
23日㊏ AC地区 年間第17主日のミサ  10:00
24日㊐ BD地区 年間第17主日のミサ  10:00
30日㊏ BD地区 年間第18主日のミサ  10:00
31日㊐ AC地区 年間第18主日のミサ  10:00

京都みんなで捧げるミサ 

年間第13主日のミサの配信はありません。

京都教区時報7月号が発行されました。京都教区のHPで読めます。
冊子は聖堂後ろに置いてありますので、お持ち帰りください。

■京都教区信仰教育委員会より、8月27日に行われる「教会学校研修会」のご案内が届いています。教会でまとめて申し込みますので、参加希望の方は教育部までお申し込みください。

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ9章51~62節)

 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、 彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書は、2度目の受難予告の直後の箇所で、「イエスは、天にあげられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」という言葉で始まります。「決意を固められた」と訳されている箇所は、「顔を固くする」という意味で、自分の眼差しの方向性をはっきりと固定するという意味があります。わたしたちの人間の視野は、他の動物から見たら広くはありませんが、それでも両目で平均120度は見渡すことができます。しかし、最初は1ミリ程度の違いであっても、それが長い先では、まったく目的地が違ってくることをわたしたちは知っています。ですから、イエスさまが自分の顔を固められたということは、エルサレムという目的に対して、1ミリの違いもなく方向を定められたことを意味しています。そして、それをイエスさまに従う弟子たち、わたしたち一人ひとりにも求められました。それが、イエスさまに呼ばれて従おうとする3人の姿として描かれていきます。内容は非常に厳しいと思われるかもしれませんが、要はイエスさまに呼ばれて、1ミリの違いもなく従っていくことが必要だとされるということが言われています。少し詳しく見ていきましょう。

一番目に言われることは、イエスさまに従うということは、イエスさまに無条件で、保証なしに従うということです。現代人はリスクを負うことを極端に嫌います。それは、現在ある状態が変わらないということを前提に考えているからでしょう。しかし、人間が生きていくということは実はリスクと隣り合わせというか、生きるということは必ず変化していくこと、必ず死ぬことを前提にしています。生きるということは変わることであり、死ぬことであり、それらを抜きにした生などありません。ですから、イエスさまに従うときに無条件で保障なしということは、イエスさまと1ミリの違いもあってはならない、つまりわたしという勘定が入ってはならないということを意味しています。イエスさまに従っているつもり、イエスさまを分かっているつもり、イエスさまを知っているつもりの人が一番厄介だと言わざるを得ません。わたしたちは一人として、誰もイエスさまのことを分かっていないのです。では、どうしたらよいのでしょうか。今日一日、今日一日とイエスさまに従っていくことなのです。わたしの計画やリスクマネージメントなど不要です。ただ、今というとき、イエスさまとの関わり、人格的な友情を深めていくことしかできないのです。「友のためにいのちを捨てること、これ以上大きな愛はない」と言って、イエスさまはわたしへの友情ゆえに、いのちをかけてくださいました。そのイエスさまの友情に応えることが、わたしたちがイエスさまに従うことなのです。そこには、わたしという勘定は入りません。

二番目に言われることは、イエスさまに従うということは、イエスさまの使命に与るということです。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」。家族の葬儀をないがしろにせよと言われたのではなく、友であれば、自分の計画ややりたいことに身を委ねるのではなく、イエスさまの使命に身を委ねるということです。どれだけ多くの人々がイエスさまの名を利用して、自分の計画を推し進めようとしてきたことでしょうか。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った弟子たちを、イエスさまは厳しく戒められておられるのはそのことなのです。その違いは、どこからくるのでしょうか。それこそ、イエスさまとの関わり、人格的な友情なしに行動しているところから生じることなのです。イエスさまとの関わりが深ければ深いほど、自我という殻から抜け出して、神の国を述べ伝えることになります。ですから、イエスさまに従うときに、イエスさまとの友情を深めることをないがしろにした教会運営、教会活動などあり得ません。実はイエスさまの名を利用して、わたしがやりたいと思っていることをしているだけではないのか、それを振り返る必要があります。

三番目に言われることは、このイエスさまとの関わりは急を要しているということです。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」ということだと思います。イエスさまとの友情を日伸ばしにする人は、まさに「鍬に手をかけてから後ろを顧みるもの」となってしまいます。イエスさまとの出会いは、一期一会であり、今というときをおいて他にはないのです。時間ができたら祈ろうとか、時間ができたらイエスさまについて学ぼうというのであれば、けっして間に合いません。また、イエスさまに相応しくなってから従おうと思っているなら、死ぬまで相応しくなれません。イエスさまと出会うのは、“今”というときをおいて他にはないのです。時間ができたら、相応しくなったらと言い訳する人は、イエスさまとの出会いを果たさずに死んでいきます。そもそも、自分のための時間は充分に取っておいて、その合間でイエスさまとの友情を深めようという浅ましさが問題なのです。わたしたちは時間がない忙しい生活を送っているかもしれません。しかし、その忙しく、不安定で、いろいろな問題を抱えているその生活の中で、そのときそのときにイエスさまと関わっていくしかないのです。大切な友人であるイエスさまをないがしろにして、自分の時間だけは取っている人が、果たしてイエスさまの親友ということができるでしょうか。イエスさまの呼びかけは、今わたしにかけられているのです。“汝、直ちに来たれ”と。その意味で、最初のベクトルの1ミリの微妙なずれであったとしても、それはイエスさまへと向かわず、まったく違ったものになってしまいます。それは司祭であれ、修道者であれ、信徒であれ同じです。わたしがどういうふうに応えたいかに意味があるのでなく、“汝、そのままで直ちに来たれ”という呼びかけを聞き、今、今日、このときに応えさせていただくことが大切なのです。わたしが自分の力で応えられると、一ミリでも思ってはならないのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。