年間第14主日の福音と勧めのことば
2022年07月03日 - サイト管理者♰主の平和
あっという間に梅雨が明け、厳しい暑さが続いています。
ミサにお越しの際にはお水をご持参なさり、どうぞくれぐれも熱中症にはお気をつけください。
救いの源である神よ、あなたは分裂に悩む世界にひとり子を遣わし、平和と一致の道を示してくださいました。この集いに招かれた一人ひとりが、新しい心で救いのことばを聞くことができますように。(年間第14主日の集会祈願より)
■7月のミサ予定
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
7月
3日㊐ BD地区 年間第14主日のミサ 10:00
9日㊏ ミサなし
10日㊐ ミサなし
16日㊏ BD地区 年間第16主日のミサ 10:00
17日㊐ AC地区 年間第16主日のミサ 10:00
23日㊏ AC地区 年間第17主日のミサ 10:00
24日㊐ BD地区 年間第17主日のミサ 10:00
30日㊏ BD地区 年間第18主日のミサ 10:00
31日㊐ AC地区 年間第18主日のミサ 10:00
■皆様からの大塚司教様司教叙階25周年お祝いメッセージは司教様へお渡しいたしました。
また、非公開で行われたお祝いのミサの様子は京都司教区のホームページに掲載されていますのでご覧ください。
■京都教区から、京都南部地区適正配置指針の見直しについての文書が届いています。掲示板、または教区のホームページをご覧ください。
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福音朗読 ルカによる福音(ルカ10章1~9節)
(そのとき、)主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
京都教区は共同宣教司牧に取り組んでいますか、今日の箇所はその精神を説明できる箇所であるといえるのではないかと思います。共同宣教司牧は「信仰改革」であるといわれてきましたが、福音宣教を推進するために、教会共同体の組織・制度を改編することに取り組んできましたが、それだけでは充分ではないと思います。今日の福音から、福音宣教、共同宣教司牧について、今一度考えてみたいと思います。
先週は、イエスさまに従うものの心構えが説かれていると思われる箇所が朗読されました。「狐には穴があり…だが、人に子には枕するところもない」、「死んでいるものたちに、自分たちの死者を葬らせなさい」、「鍬に手をかけてから後ろを顧みるものは、神の国にふさわしくない」という厳しいイエスさまの言葉が続きました。それで、わたしたちはイエスさまに従うものの覚悟について話されているのだと思ってしまいました。しかしそうではなく、「わたしに従いなさい」と呼びかけられているイエスさまの声が、今わたしに届いていること、そこに中心があることをお話ししました。
今日の箇所も、イエスさまが弟子たちを福音宣教に遣わすにあたって弟子たちに求められる要件のように捉えてしまう可能性があります。わたしたちは皆自己中心ですから、自分の立場からしか、物事を考えることができません。ですから、わたしがイエスさまの呼びかけにどのように応えるかとか、わたしが福音宣教をどのように行うか、ということを考えてしまうわけです。大切なのは、わたしがどうこうすることではないのです。わたしがどのようにイエスさまの呼びかけに応えようが、わたしがどのように福音宣教をしようが、それは所詮、方法、手段であって、そこに中心があるのではないことを知らなければならないのではないでしょうか。
イエスさまが弟子たちを福音宣教に遣わすにあたって、二人ずつのチームとし、財布も袋も履物ももつことをゆるさず、誰にも挨拶をしないで、あたかも狼の群れに子羊の群れを送り込むようなことをされたのはどうしてでしょうか。狼の群れに子羊が迷い込んだら最後、狼の餌食になってしまいます。命はありません。イエスさまは羊のいのちなど何とも思っておられないのでしょうか。お金も旅に必要なものもなく、履物もなしで荒野を彷徨えば、それこそ命の危機に晒されます。誰にも挨拶するなということは、それほど急を要しているということです。それでどこかの家に入って、「この家に平和があるように(シャローム)」と挨拶したところで、誰がまともに相手をしてくれるでしょうか。要は、人間的に頼りになるものは何も保証されていないのです。そんな状況で福音宣教をしなさいと言われているのです。無理というものです。なぜ無理なのでしょうか。それは、“わたしが”、自分の度量で福音宣教をしようとしているからです。
イエスさまは、「行きなさい」と言われますが、「“わたしは”あなたがたを遣わす」と言われます。ここで、イエスさまは、福音宣教に遣わすのは、“わたし、イエスである”とはっきり明言されることで、福音宣教はイエスさまの派遣であり、イエスさまの業、イエスさまの働きであることが明らかにされます。ルカの眼差しは、福音宣教をする弟子たちの資質ではなく、彼らとともに働くイエスさまの働きに向けられています。ですから、イエスさまは、彼らに「行きなさい」と言われる前に、先ず「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言い、イエスさまに祈ること、願うことを求められました。それは、福音宣教は遣わされる弟子たちの働きではなく、イエスさまの働きであることを明らかにするためでした。そのためには、遣わされる弟子たちとイエスさまとの親しい関わりが重要視されてくるわけです。
わたしたちが宣べ伝えるのは、わたしではなく、イエスさまです。人間はどうしても自己中心ですから、わたしが前に出てしまいます。そして、善意とはいっても、イエスさまを宣べ伝えているつもりでも、自分を宣べ伝えてしまうことになりかねません。宣教から帰ってきた弟子たちは案の定勘違いをして、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも“わたしたちに”に屈服します」と喜んで報告します。弟子たちは、悪霊が自分たちに屈服しているのだと勘違いしています。イエスさまはそのようなわたしたちの人間的な弱さ、限界、傾きをよくご存じでしたから、弟子たちをチームとして、そしてまったき貧しさのうちに派遣されました。チームであれば、ひとりによる専横を避けることができます。また、貧しさのうちに派遣することで、すべてがイエスさまによって計らわれていることに気づかされます。しかし、イエスさまの弟子たちでさえ勘違いしてしまうのなら、わたしたちが勘違いしてしまうのも、そのことにさえ気づかないのも当然なのかもしれません。その可能性をイエスさまはよくご存じだったのだと思います。
共同宣教司牧は、わたしたちが共同体の組織・制度を改編することや共同体で分かち合いをすることに留まりません。福音宣教、共同宣教司牧の働き手は、わたしたちではなく、わたしたちを通して働かれるイエスさまです。ですから、わたしたちの共同体が、イエスさまの共同体であると人々が分かるところまで、わたしたちがわたしではなく、福音であるイエスさまをもたらすことができるところまで、わたしたちを通して人々がイエスさまの働きを見ることができるところまで、わたしたちの宣教の動機や手段、活動を浄めていくこと、そのプロセスそのものが共同宣教司牧なのはないでしょうか。わたしたち教会共同体が人々とイエスさまの出会いの場となるまで、わたしたちはイエスさまとの関わりをまず深めていかなければならないのです。