年間第15主日の福音と勧めのことば
2022年07月10日 - サイト管理者♰主の平和
いつくしみ深い父よ、人とのかかわりを見失い、愛に飢え渇く世界に、主イエスは、ことばと行いをとおして愛をもたらしてくださいました。わたしたちが、きょう語られるキリストのことばを、誠実に受け止めることができますように。(年間第15主日の集会祈願より)
■7月のミサ予定
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
7月
10日㊐ ミサなし
16日㊏ BD地区 年間第16主日のミサ 10:00
17日㊐ AC地区 年間第16主日のミサ 10:00
23日㊏ AC地区 年間第17主日のミサ 10:00
24日㊐ BD地区 年間第17主日のミサ 10:00
30日㊏ BD地区 年間第18主日のミサ 10:00
31日㊐ AC地区 年間第18主日のミサ 10:00
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
年間第15主日のミサ
https://youtu.be/3q8xg2xKjYQ
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福音朗読 ルカによる福音(ルカ10章25~37節)
(そのとき、)ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。 あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、 その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、有名なよきサマリア人のたとえと言われる箇所が朗読されます。今日の箇所は大抵の場合は、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエスさまの問いと、「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスさまの言葉を引用して、隣人愛の実践について説教されがちです。それを素直に受け入れるのであれば、それはそれでもいいのですが、そもそもイエスさまがなぜこのたとえ話をされたのかというところから見ていく必要があるように思います。
今日の物語の伏線にあるのは、ある律法学者がイエスさまを試みようとして、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができますか」と質問したことから始まります。永遠のいのちを得たいというもっともな問いかけですが、それはイエスさまを試みるための悪意ある質問であったということが書かれています。どういうことでしょうか。ユダヤ教では、モーセから与えられた律法を実行すれば、永遠のいのちが得られると教えられていました。ですから、神への愛と隣人愛を教える律法を実践するという答えはすでに出ているのです。それでは、何が問題だったのでしょうか。
永遠のいのちを受け継ぎたいという望みが、先ず問題であると言わなければならないと思います。永遠のいのちを受け継ぎたいという望みの何が問題なのでしょうか。ユダヤ教の律法学者やファリサイ人にとって、永遠のいのちを受け継ぐこと、神によって嘉せられることは、彼らの宗教の究極的な目的でした。その何が問題なのでしょうか。そもそも、永遠のいのちを得たいのは何のためでしょうか。それは、自分が救われたいとか、自分が神さまから嘉せられたいということでしょう。これをわたしたちキリスト者に置き換えるなら、天国に行きたいとか、救われたいということでしょう。でも、考えてみると、これほど自己中心的な話があるでしょうか。そのわたしが救われて行きたいと思っているところは、自分の望みが叶う世界ではないでしょうか。わたしの働きや努力が認められて、「忠実な良い僕だ、よくやった(マタイ25:21)」と褒めてもらえる世界、報われる世界です。また、わたしたちは、あの人とだけは会いたくないと思う人がいます。そのような人たちがいない世界、自分の嫌いな人、憎い人がいない世界だと思っていないではないでしょうか。今日の聖書のことばでいえば、“わたしの隣人たち”だけがいる世界を天国だとか、永遠のいのちだと思っていないでしょうかということです。大体、自分と自分の好きな人たちだけは救われる、そのような永遠のいのちを得たいと思っている自分の性根そのものが問題なのです。気をつけないと、わたしの救いは非常に狭い、自分にとって都合のよい世界を考えていないかということが問われます。それでは、イエスさまはどのように考えておられたのでしょうか。
当時のユダヤ人たちが考えている隣人愛の対象となる人たちは、同じ同胞のユダヤ人だけでした。ユダヤ人以外の外国人、ローマ人やギリシャ人、そして何百年間も反目し合ってきたサマリア人はまさに敵そのものであって、愛することなど考えもしませんでした。ですから当時のユダヤ人が、永遠のいのちを受け継ぐために律法が命じている隣人愛の隣人というのは、同朋のユダヤ人だけに限られていました。つまり、彼らの考えている永遠のいのちの世界は、同朋のユダヤ人だけが幸せになる世界でしかなかったのです。他の憎むべき敵であるローマ人やギリシャ人、ましてサマリア人などがいない世界であったわけです。こんなに自分勝手な救いなどあるはずがないことは、わたしたちは直ぐに分かるでしょう。しかし、これがわたしのこととなれば別ではないでしょうか。
わたしたちが永遠のいのちを受け継いだ世界に、自分の嫌いな人、自分が憎んでいる人、自分を苦しめた人、自分にとって都合の悪い人はいてほしくないというのが本音ではないでしょうか。洗礼を受けた人は救われるが、洗礼を受けていない人は救われないという発想も所詮同じことです。イエスさまは今日のたとえ話で、祭司やレビ人を非難し、外国人であるサマリア人の行動を褒められたという単純な話ではないのです。また、イエスさまはよいサマリア人のたとえを話すことで、隣人愛の対象の境界を広げていくように教えられたのだと言う人たちもいます。しかし、問題はそんな簡単なことではありません。そもそも隣人という言葉は、反対概念である敵を含んだ言葉であるということです。ユダヤ教では、「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきました。それに対して、イエスさまは「敵をも愛しなさい」と教えられました。そこで、わたしたちが隣人愛の境界を少し頑張って広げたところでは、この憎しみと争いに明け暮れる世界をどうすることも出来ないのです。そもそも、敵を作り出しているのは誰なのでしょうか。実は、隣人と敵、同朋と異邦人という境界を作り出しているのは、わたしたち人間の心のあり方に他なりません。ですから、そのあり方、その心の闇に光が当たらない限りどうすることも出来ないのです。
イエスさまが問題とされたのは、味方と敵、ユダヤ人と外国人、洗礼を受けた人と洗礼を受けていない人という境界を作り出している人間の心の闇です。わたしたち人間は自分を相手と区別することで、自分というものを認識し、安定しようとします。イエスさまが問題にされたのは、そのような人間のもっている本性、弱さ、限界、傾きを自分のこととして意識しなさいということだと思います。洗礼の有無などイエスさまからしたら、大したことではありません。それとも、イエスさまが洗礼を受けた人は救うけれど、受けていない人は救わないとでもいうのでしょうか。わたしたちは、大変な思い違いをしていないでしょうか。よいサマリア人のように隣人愛を実践しましょうという標語を掲げているだけでは、このわたしの心の闇は何も変わらないのです。先ず、わたしの心の闇に光を当てていただくこと、そこから始めなければならないのではないでしょうか。