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教会からのお知らせ

年間第17主日の福音と勧めのことば

2022年07月24日 - サイト管理者

♰主の平和

現在国内において、新型コロナウイルスの感染が急拡大していて、私たちの身近でも、いつ、だれが感染してもおかしくない状況が続いています。
高野教会では、感染拡大防止に留意しながらミサを続けてきましたが、熟慮の上、明日からのミサをやむなく中止することにいたしました。
「すべてのいのちを守るため」の判断をご理解いただきますよう、どうぞよろしくお願いいたします。
ミサ中止期間:7月23日~8月14日
どうぞくれぐれもご自愛くださり、祈りのうちにお過ごしくださいませ。

京都みんなで捧げるミサ 

年間第17主日のミサ

京都教区時報8月号が発行されました。

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ11章1~13節)

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
 『父よ、
 御名が崇められますように。
 御国が来ますように。
 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
 わたしたちの罪を赦してください、
 わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、 門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、祈りについての教えの要約ともいえる箇所です。今まで、いずれも問題とされてきたことは、神への愛と隣人愛、隣人と敵、祈りと活動というように、人間が物事を二元論的に捉えてしまうことにありました。ここで取り上げられる祈りは、生活や活動と対峙した祈りではなく、生活の中から湧き上がってくる願い、叫びのようなものを見ることができます。そこから祈りの本質について考えていきたいと思います。

ルカ福音書は、しばしば祈っているイエスさまの姿をわたしたちに伝えてきます。今日の箇所は、洗礼者ヨハネが自分の弟子たちに祈りを教えていたように、自分たちにも祈りを教えてほしいという弟子たちのイエスさまへの願いから始まります。そこで、イエスさまは弟子たちに主の祈りをお与えになります。しかしここでイエスさまが教えたのは、いわゆる文句として主の祈りではありません。わたしたちは祈りというと、文句が決まったものやミサ、信心業を思い浮かべがちです。しかし、そもそも祈りというものは何でしょうか。アウグスティヌスは「主よ、あなたは我々をご自身に向けて創られました。ですから、我々の心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることはできないのです」と言っています。つまり、人間は、否、すべての生きとし生けるものは、わたしたちが祈る前に、神へと向かう存在論的志向性を与えられているということです。わたしたちの魂のうちに、いのちの根源へと還ろうとする動きが刻印されていると言ってもいいと思います。このいのちの根源へと向かう動き、それが祈りについて考えるときの前提になります。

弟子たちは、イエスさまがたびたび祈っておられる姿を見て、イエスさまのうちに体現されているこのいのちの本源への志向性というようなものに、心動かされたのではないでしょうか。イエスさまの全存在そのものが祈りとなっているというか、いのちの叫びとなっているということではないかと思います。だから、弟子たちは、わたしたちにも祈ることを教えてほしいと願ったのではないでしょうか。すべての生きとし生けるものうちには、その根底において神へと向かう動き、渇きがあります。しかし、すべてのものがそのことを意識しているわけではありません。むしろ、その動き、渇きに対して無意識、無関心である方が普通かもしれません。しかし、人間の心の深みにはいのちへの渇きがあり、たえず神へと向かおうとしていいます。その渇きは、人間のさまざまな形を変えた欲望や願いとなって、人間の中に蠢いています。満たされたい、愛されたい、大切にされたい、自分のものにしたいといった人間の根本的な願望です。しかし、こうしたわたしたちの自分勝手な欲望は、決して満たされることはありません。それは、わたしたちのうちに神への渇きがないということではなく、かえって、いのちの源泉への癒されることのない渇きとして意識されるのではないでしょうか。どれほど雲が太陽を覆い尽くそうとも、太陽は存在し続けており、雲に覆い隠されていたとしても、いのちあるものは光の方へ、光の方へと向かう動きが、太陽の存在を証明しているようなものです。そして、人間はその自分の内なる志向性によって、自分を超え出て行くときにはじめて、本来の人間になれるということではないでしょうか。その意味で、祈りは、人間の根源的な渇きからくる、もっとも人間らしい行為でしょう。しかしながら、この渇きは神さまが与えられたものである以上、それは人間の行為である以前に、人間のうちにおいて、人間とともに、人間に働きかける神の営みそのものであり、それこそが祈りであるということができるのだと思います。

イエスさまは弟子たちに主の祈りを与え、パンを求める友人のたとえから、非常に具体的信頼をもって祈るように言われました。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」と。イエスさまは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われました。「多分与えられるだろう」とか、「おそらく」などとは言われません。しかし、わたしたちは、神さまがいつも必ず与えてくださらないことも知っています。それは、おそらくわたしたちの自分勝手な願いであって、わたしには今、必要がないからなのでしょう。

それでは、それでもイエスさまはわたしたちに与えると言われたものは何なのでしょう。それが、今日の福音の最後に書いてあります。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。つまり、イエスさまが、わたしたちに必ず与えられるものは「聖霊」であると言われます。聖霊は神さまのいのちであり、神さまの愛の本質です。そして、その愛の特徴は自らを与えることです。ですから愛である神さまは、ご自身を与えることしかできないということなのです。それが聖霊を与えるということです。神さまは愛でいらっしゃるので、自分を与えることしかできない。だからわたしたちが願い求めるものは、愛を、神を求めることでなければならないということだと思います。この愛は、すべての生きとし生ける苦しむものをすべて救いたいと願っておられる、イエスさまの真実の愛以外に他なりません。ですから、その愛をわたしたちが受けるとき、わたしが求めていたわたしが救われたいとか、わたしが気づきたいとか、そんなちっぽけな話ではなく、今、苦しんでいる人々がいる、喘ぎ、飢え渇いている人々がいるという現実が見えてくるということだと思います。わたしたちが、求めなければならないものは、このイエスさまの愛であり、イエスさまはその愛を、聖霊を必ず与えると言われるのです。

わたしたちのうちにイエスさまへの愛への渇きを与えられたのは、イエスさまであり、わたしたちのうちにおいて、その愛を願い求めるのもイエスさまであり、その愛を必ず与えるのもイエスさまです。おそらく、今までのわたしたちは、わたしがイエスさまを知って、イエスさまを信じて、イエスさまに祈って、努力して、そしてわたしが救われるのだと思っていたでしょう。司祭たちも信徒たちも、ほとんどそうだ思っているでしょう。しかしそれは、まったく違うのです。イエスさまの愛の世界は、そんなみみっちい話ではないのです。まして、聖体拝領をして、救われた気分になることなどとは全く違うのです。そうではなく、わたしたちすべてのものに愛の渇きが与えられている、つまり、実はすでにわたしたちに聖霊が与えられているということなのです。イエスさまは、わたしのうちにあって愛を乞い求めておられる。そして、愛を乞い求めて苦しんでいるすべての生きとし生けるものの姿を、わたしにも見させてくださるのです。このすべての愛の営み、愛の働きが祈りなのです。ですから、祈りはイエスさまの、わたしたちのうちにおけるイエスさまの行為、営み、愛の働きに他ならないのです。

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ミサの時間

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