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教会からのお知らせ

年間第18主日の福音と勧めのことば

2022年07月31日 - サイト管理者

♰主の平和

暑さの厳しい毎日ですが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
ミサが中止となり、新型コロナウイルスの感染爆発が止まりません。
いつ、どこで、誰が感染してもおかしくない状況が続いています。
どうぞくれぐれもご自愛くださり、祈りのうちにお過ごしくださいませ。

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

年間第18主日のミサ
https://youtu.be/bHZaRr4XPGo

■京都教区時報8月号が発行されました。冊子は聖堂に置いてあります。
http://www.kyoto.catholic.jp/jihou/537.pdf

■2022年平和旬間8月6日~15日
日本カトリック司教協議会会長談話「平和は可能です。平和は義務です。」https://www.cbcj.catholic.jp/2022/07/11/24906/

■京都教区カトリック正義と平和協議会 第15回戦争と平和写真展「沖縄 フクシマ アフガニスタン」
日時:8月6日(土)15:00~20:00
   7日(日)7:00~15:00
会場:河原町教会ヴィリオンホール
入場無料
http://www.kyoto.catholic.jp/new/seiheikyo/20220806.pdf

■京都教区中高生 広島平和学習オンライン企画「テーマ:バトンリレー」
広島平和巡礼を今年はZOOMで開催します。過去2年間、中学生の広島平和巡礼が中止になったので、今回の対象は中学生と高校生です。それ以上の方のご参加も歓迎と書かれていますので、ご案内します。
https://cbe448b2-93d4-4814-819d-1fde23287f13.filesusr.com/ugd/8117f0_4cc756280dc94e6e8d1c911f75b06c3d.pdf

■洛北ブロック中高生会 夏の集い「聖書のおなまえっ!」
日時:8月21日(日)10:00~15:00
場所:望洋庵・西陣教会(お弁当、飲み物持参)
申込締切:8月14日
申込・詳細は教育部または役員まで
*コロナ感染拡大により、中止となる場合があります。

■教区典礼研修会「新しいミサ式次第の実施について」
日時:9月17日(土)14:00
方式:ZOOM
※ご参加の際は、お手元に『新しい「ミサの式次第と第一~第四奉献文」の変更箇所』や新しい 『会衆用式次第』などをご用意ください。
https://cbe448b2-93d4-4814-819d-1fde23287f13.filesusr.com/ugd/8117f0_25cf627c637346c4a774f286ccf77fe8.pdf

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ12章13~21節)

(そのとき、)群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。 有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の愚かな金持ちのたとえは、わたしたちすべてのものへの問いかけとなっていると思います。この金持ちにとっては、自分の望んだことがすべて満たされていくことが幸せで、それが現世でのすべてだったのでしょう。

当時のユダヤ教の考え方によると、この地上での繫栄や富、成功は、まさに神さまがその人を嘉せられているしるしであると考えられていました。ですから地上の富や成功は、ユダヤ人にとっては神さまからの祝福そのものでした。わたしたちが願う、家内安全、無病息災、立身出世、大願成就などなどが叶えられることです。それは、ただ自分たちの思いがすべて満たされていく世界を、人間の現世での幸福、あるいは救いと考えていたということに他なりません。さらに、ユダヤ人たちは、現世における義人の苦しみをどのように考えるかということが問題となり、ヨブ記などが書かれていきます。

そして、イエスさまの登場される時代には、この現世で無理なら、せめて来世で自分の思いが叶えられる世界を永遠のいのちとして理解するようになっていきます。イエスさまの時代のサドカイ派は、来世を認めませんでしたが、ファリサイ派は来世を認めるようになっていきます。しかし、彼らが望んだことは、現世であろうと来世であろうと、所詮自分の思いが満たされていく世界を望んでいたのに過ぎません。イエスさまはそのようなユダヤ人たちに、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこのとおりだ」と言われました。しかしこのイエスさまのことばを、教会は、来世のために善行をして天国に宝を積むという誤った信仰理解をしていきました。イエスさまが問題にされたのは、富の虚しさではないのです。まして、この世で無理なら天国でという話でもありません。そうではなく、人間が自分の思いが叶うことが幸せであり、自分の思いが叶わないことが不幸であると考えている、わたしたちの心のあり方を問題にされているのです。

仏教では六道輪廻の中に、天というものがあるとされています。天というのは天人の世界で、自分のすべての思いが満たされていく世界を意味しています。普通の人は自分の願い、救い、健康、長寿、学業、成功、富などすべてが満たされたら幸せだと考えています。そして、そのすべてが満たされた世界が天であると言えます。しかし、仏教の世界では天も迷いの世界であると言います。すべての思いを叶えた天人の世界にも、天人五衰と言って、その輝きに陰りが出て、腐ってくると言われます。その天人五衰には、5つのしるしがあると言われています。先ず自分の衣服が汚れてくる、次に頭の冠が萎えてくる、体臭がするようになる、脇に汗が流れるようになる、じっとしていられなくなる。現代人の生活は、まさに天人五衰の生活ではないでしょうか。どれだけ豊かさを手に入れても、その豊かさを失うのではないかと不安になり、じっとしていられない、まさに現代は天人の生活です。それは見え方が違うだけで、結局は人間の迷いの世界なのです。そして、わたしたちキリスト教が考えている救いとか天国というのも、所詮はこの程度のことではないでしょうか。

それでは、イエスさまが「神の前に豊かになる」と言われたのはどのようなことなのでしょうか。そのヒントが今日の第2朗読にあるように思います。「新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです(コロ3:11)」。わたしたちは、わたしを中心にしてこれが幸せだ、これが不幸だ、これが正しい、これは間違っている、この人は同胞で、この人は外国人というふうに、すべてを分別してこの世界を生きています。そして、自分を中心にして、自分がどちらに入るか、あの人はどちらに入るかで物事を見て判断しています。そして、その分別の世界から一歩も出られないのがわたしたちの現実ではないでしょうか。イエスさまは、そのような迷いの世界から一歩も出ることのできないわたしたちを日々新たにし、真の知識を授けたいと思われたのです。そうすると、また真の知識を持っている人と持っていない人が出てきます。そして真の知識を持っている人は救われるが、持っていない人は救われないということになります。救われるとか救われないとか言って、人間は世界に境界を作り出しているけれど、イエスさまはそのようなものは真の救いではないと言われたのです。

それでイエスさまはどうされたかというと、イエスさまは救いという境界を破壊されたということなのです。具体的には、イエスさまは“すべてのものとなって、すべてのもののうちにおられる”ようになられたのです。これが、イエスさまが復活されたということであり、時間と空間をなくして、世界の境界、差別、区別をすべてなくされたということなのです。時間の境界も、空間の境界もすべてなくし、永遠のいのち、永遠の光となって、この世界、この宇宙をいのちと光で満たされたということなのです。それが「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」ということです。イエスさまがすべてで、すべてのもののうちにおられるのであれば、そこに如何なる差別も区別もないし、救われた、救われないという境界さえもないはずです。しかし、それにもかかわらず、自分の周りに境界を作り続けているのが人間であるということなのです。わたしたちは光の中にありながらも光に背を向け続け、自分の心の殻に閉じこもり続けているのです。自分に光が届いていることを、いのちで満たされていることを見ようとしないのです。

そのわたしの殻を破ってくださる方が、復活されたイエスさまです。パウロは、いみじくも「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。(Ⅰコリ1:17)」と言っています。ここで言葉の知恵といわれているのが、人間の知恵の世界のことです。この人間の言葉の知恵を破るものが、イエスさまの十字架と復活です。「わたしが遣わされたのは、洗礼を授けるためではない」とまで、パウロは言います。それは、洗礼によって救われた、救われないという区別をしている人間に対して、イエスさまはその区別をなくされたということなのです。教会は、救いという境界をつくりだすことではなく、その境界を破壊していくことが、本来の使命です。わたしたちが、真の知恵によって、イエスさまの福音の本質に触れさせていただけるように祈りましょう。イエスさまの十字架と復活こそが、真の知恵、真のいのち、福音なのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。