年間第21主日の福音と勧めのことば
2022年08月21日 - サイト管理者信徒の皆さまへ
♰主の平和
少し暑さがしのぎやすくなり、夜になると秋の虫の声が聞こえてくるようになりました。
お変わりなくお過ごしでしょうか。
どうぞくれぐれもご自愛くださり、祈りのうちにお過ごしくださいませ。
すべての人の父である神よ、国籍や民族の異なるわたしたちを、あなたはきょうも神の国のうたげに招いてくださいます。呼び集められた喜びのうちに、わたしたちが一つの心であなたをたたえることができますように。
(年間第21主日の集会祈願より)
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■年間第21主日のミサ
https://youtu.be/5KzxSoTqX7o
■高野教会聖堂正面十字架へのスポットライト、一時消灯のお知らせ
聖堂正面十字架へのLEDスポットライトは、従来は常時点灯していましたが、LED は熱に弱い性質があることから、酷暑の続くこの時期、ライトの保護も必要なため、現在は消灯しています。ご了承ください。
■衣笠墓苑の道路改修工事に伴う通行止めについて
「8月22日(月)~9月30日(金)の間、道路(聖嬰会⇔墓苑)の改修工事が行われます。期間中、通行ができなくなり、墓参していただけません。大変ご迷惑をおかけいたします。」
上記のように、京都教区より連絡がありました。衣笠墓苑にお墓をお持ちのお知り合いの方にも、どうぞお伝えくださいますようお願いします。
■新しい『ミサ式次第【会衆用】簡易版』の配布について
11月からミサの式次第が新しくなりますので、信徒の皆様の個人使用のための小冊子を、教会で一括注文しました。9月以降、配布方法についてご案内いたします。
この新しい式次第については、菅原神父様が『京都教区時報』に7回にわたって連載記事を書いてこられました。現在、まとめて教区のホームページで読むことができます。ぜひ、ご参考になさってください。
http://www.kyoto.catholic.jp/mass/newmass.html
■教区典礼研修会「新しいミサ式次第の実施について」
日時:9月17日(土)14:00
方式:ZOOM
※ご参加の際は、お手元に新しい『ミサ式次第』、『新しい「ミサの式次第と第一~第四奉献文」の変更箇所』などをご用意ください。
https://cbe448b2-93d4-4814-819d-1fde23287f13.filesusr.com/ugd/8117f0_25cf627c637346c4a774f286ccf77fe8.pdf
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福音朗読 ルカによる福音(ルカ13章22~30節)
(そのとき、)イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブや すべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」という弟子たちの問いから、今日の物語が始まります。そもそも、弟子たちのこの問い自体が間違っています。救いというものが、何かを信じたり、何かをしたことの結果であったり、また救いがすべての人の救いでないのなら、救いではありません。宗教は気をつけないと、救いに条件を付けたり、救いに線引きをして、こちらに来れば救われるが、こちらに来なければ救われないということをやりがちです。宗教は、自分たちの正統性を主張するために、他を排除し、救いを限定するという自己矛盾に度々陥ります。これがどの宗教も抱えている自己矛盾であり、同時にそれは自己内省、自己点検の要点にもなります。しかし宗教は、国家と結びついたり、民族・文化と結びついたりして、様々な問題を引き起こしてきました。そもそも、宗教が救いということを説くときに、救いを特定の人たちだけのものであるとか、信じた人だけが救われると言った時点で、それはもはや宗教の本来の姿から逸脱したものであり、真の救いではなくなってしまいます。わたしたちが信じている方は、そんなに狭量な方でしょうか。慈しみぶかい、あわれみ深い方で、すべての人間の救いを望んでおられる方ではなかったのでしょうか。何か問題であるかというと、救いそのものを誤って捉えている、人間にあるのではないでしょうか。
今日の福音では、救いはすべての人が招かれている宴会として描かれています。しかし、宴会というイメージで救いを説明しようとすること自体にすでに限界があります。わたしたち人間は、宴会と言うと、ある特定の時間に、ある特定の場所で行われている、招かれる人と招かれない人がある会食であるとしか捉えることができません。そうすると、わたしたちは、どうしたら宴会に行くことができるのか、その条件を考えて、その条件に適うようにしようとします。そして、その条件を充たすことで救われるのだと勘違いするようになってしまいます。ですから、救いを宴会として説明しようとすることには、どうしても無理があります。イエスさまの時代には分かりやすいイメージであったのでしょうか、これだけグローバル化された現代においては、宴会は理解しがたく、紛らわしいイメージであると言えるでしょう。しかし、イエスさまが意図しておられたことは、おそらくもっと別のところにあったように思います。
イエスさまが問題にされていたのは、どうしたら救われるかということではなく、どこまでも救いに背を向け続ける人間の姿にあったのではないかと思います。そうすると、イエスさまが言われた「狭い戸口」というのは、救われるための条件の厳しさではなくて、どこまでいっても救いを人間の頭の理解で捉えて、頑なに救いを拒否していく人間の狭さ、限界について言われているのではないでしょうか。あとの部分で、イエスさまははっきりと、「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国の食卓に着く」と言われました。そこには何の条件も付けられていません。誰をも排除しない、差別しない、すべての人が救いの対象であることが明確に述べられています。救いのために条件があるかのように思うのは、人間の勝手な思い込みであり、イエスさまと駆け引きをしているのにすぎません。こういうふうにすれば救われると言って、救いをどこまでも限定し、狭めていく人間の浅はかな知恵が「狭い戸口」なのです。そして、こんなはずではなかったと、泣きわめいて歯ぎしりするのです。人間の頭で考えている限り、イエスさまの救いなど分かるはずがありません。どこまでも、自分の心で納得して、頭で分かろうとする愚かな愚かなわたしたちの姿が描かれています。
実は、その愚かさに気づくこと、それ自体が救いなのではないでしょうか。救われる、救われないではない、そのような分別をしているわたしたちの愚かさをはるかに超えて、わたしたちを救うというイエスさまの願いがあるのです。イエスさまは、すべての人が「東から西から、また南から北から来て、神の国の食卓に着く」ことを願い、誓われているのです。イエスさまが、願い誓われているということは、もう実現しているということなのです。わたしたちは、その願いに背き続けいている自分らの愚かしさに気づく、気づかせていただくことだけだと思います。人間は、自分の力では決して自分の愚かしさには気づけません。だれもが自分は、他の誰かより少しはましだと思っているからです。そのような、わたしたちの愚かしさが消えることがありません。ただ、わたしたちを救うと願い誓っておられるイエスさまの真実のみが、わたしの愚かしさに気づかせてくれるのです。その気づきが救いなのです。わたしが信じることで救われるのではありません。わたしたちは救われていることに気づくこと、それが信仰です。その信仰はわたしの心に起こりますが、わたしの心に与えられた気づきであり、イエスさまからの一方的な恵みでしかないのです。