年間第28主日の福音と勧めのことば
2022年10月09日 - サイト管理者♰主の平和
秋の涼しい風が吹き始め、急に長袖の服や上着が必要となりました。
今週末は第2週でミサがありませんので、ご自宅で祈りながら、寒さへの備えをしてください。
突然の季節の移り変わりに、体調を崩したりされないようにお気をつけください。
■今後のミサ予定
ミサの開始時刻は10:30からに変わりました。
コロナ感染対策が少し厳密になりました。ミサでの答唱詩編、アレルヤ唱は朗読となります。また、ミサ参加後2日以内に感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。
詳細は「ミサ実施要項」をお読みください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
10月
8日㊏ ミサなし
9日㊐ ミサなし
15日㊏ AC地区 年間第29主日のミサ 10:30
16日㊐ BD地区 年間第29主日のミサ 10:30
22日㊏ BD地区 年間第30主日のミサ 10:30
23日㊐ AC地区 年間第30主日のミサ 10:30
29日㊏ AC地区 年間第31主日のミサ 10:30
30日㊐ BD地区 年間第31主日のミサ 10:30
■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなります。説明や小冊子の配布は、近々行う予定です。しばらくお待ちください。
詳しいことが京都教区のHPに書かれていますので、準備のためにぜひご覧ください。https://kyoto.catholic.jp/mass/newmass.html
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■年間第28主日のミサ
https://youtube.com/watch?v=xvaghVx_2tI&feature=share&utm_source=EKLEiJECCKjOmKnC5IiRIQ
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福音朗読 ルカによる福音(ルカ17章11~19節)
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、 「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、 大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日も先週に引き続いて、信仰はどのようにわたしのこととなるのかという問題です。
イエスさまは、重い皮膚病を患っていて、癒された人に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。それは、10人の病人が癒されて、イエスさまに感謝するために引き返してきたひとりのサマリア人だけが救われたという意味ではありません。また、このサマリア人だけが深い信仰心をもっていて、それでその人が救われたという意味でもありません。それでは、イエスさまが言われたのはどういうことでしょうか。
当時、レビ記で規定されていた重い皮膚病は、不治の病で一度罹れば治るということがない病として恐れられていました。ですから、この病人たちは、この病は人間の力ではどうすることもできないことを心底分かっていました。そうすると、人間はどうするでしょうか。おそらく、人間の力を超えた特別なものにすがろうとします。それが当時、不思議な癒しの力をもっていると噂されていてイエスさまだったのです。ですから、彼らはイエスさまのお通りの際に、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫び声をあげます。彼らは、自分たちは憐れんでもらうことしかできない存在であることを心底分かっていたのです。自分で頑張ってとか、一生懸命お祈りしてとか、信仰深くなってとか、そんな自分の力ではどうすることもできないことを知っていました。彼らは自分たちの病気を治してもらいたい、ただその一心でイエスさまにすがります。それ自体は信仰でもなんでもなく、自分の病気の癒しを願う必死な気持ちでした。多くの説教で、彼らが癒されたのは、彼らはイエスさまが治してくださるという信仰をもっていたからだと説明されることが多いと思います。でもそれだけなら、よくある奇跡物語で、お稲荷さんでも、観音さんを信心するのでもいいわけです。そこで言われているような信仰は、ただの人間の願いでしかありません。その願いは、どこまでいってもわたしたちの願いであって、そのようなものは信仰とは言いません。また、救いとは病気が治るというようなことでもありません。
大切なことは、今まで病気が治りたい一心でイエスさまにしがみついていた人が、自分の病気が癒されたことをきっかけにして、わたしたちを生かし、あなたを必ず救うと願っておられたイエスさまと出会ったということなのです。自分のことで精一杯で、自分のことしか考えられない、ただ自分の病気を治したい一心でイエスさまにすがっていただけの彼らの心に、人類を生かし、必ず救うというイエスさまの誓いが、憐みが入ってきたということです。ですから、「イエスさま、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶ前に、人類を生かし、必ず救うというイエスさまの誓い、憐みがすでにあったということなのです。そして、そのイエスさまの誓い、憐みが、彼らの心に信仰として与えられてきたのです。ですから、「あなたの信仰があなたを救った」と言われている病人の信仰は、病人の信仰ではなく、彼らを必ず救うというイエスさまの誓い、そのイエスさまによって生かされていることへの気づき以外の何ものでもありません。
信仰とは、イエスさまの人類を一人残さず救わないではおれないという誓いが、わたしたちの心に信仰として振り向けられたものであり、その信仰がわたしの信仰となるときに、その信仰がわたしを気づかせる、救うということです。救いは死んでからのことではありません。わたしを救うと言われているイエスさまと、今というときに出会うこと、そのことに気づくこと、それが救いなのです。死んでから天国に行くとか、そういう夢物語ではありません。
わたしが何をしたからとか何をしなかったとか、わたしが信じたとか信じなかったとかではなく、イエスさまと出会うこと、あなたを必ず救うと誓われたイエスさまの心に触れること、それが救いなのです。わたしの中にはイエスさまに救ってもらうようなものは何もない、ただわたしを必ず救うと誓われたイエスさまの心を頂くこと、そのイエスさまの声が聞こえていること、それが信仰に他なりません。わたしが救われるために、自分の心を見つめ、心を整えて自分の生き方を見直し、わたしが頑張ったとか、わたしが悔い改めたとか、反省したとか、努力したとか、そんなことではないのです。わたしのすることなど何の価値もないのだということに気づき、ただわたしを救うと言われたイエスさまの誓いだけが真実であることだと気づくこと、それが救いなのです。
重い皮膚病を癒された9人の人たちは、自分が救われているということに気づかないで行ってしまいました。しかし、ひとりのサマリア人だけが自分は救われているということに気づいて、イエスさまのところに感謝するために帰ってきました。それでイエスさまは、「あなたの信仰があなたを救った」、あなたはすでに救われているのだ、と確認されました。それは、ああ~わたしは救われていたんでということに、今、気づいたということなのです。信仰は、イエスさまからその心がわたしたちに振り向けられたものであって、わたしが作り出せるものではありません。イエスさまの救いの声がわたしに届くとき、それがわたしの心に信仰を起こさせているのです。