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教会からのお知らせ

年間第32主日の福音と勧めのことば

2022年11月06日 - サイト管理者

♰主の平和

11月は教会の伝統の中で「死者の月」と呼ばれています。帰天された方々をしのびつつ、過ごしたいと思います。

■今後のミサ予定 
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
ミサ参加後2日以内に感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。
詳細は「ミサ実施要項」を必ずお読みください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

11月
6日㊐ AC地区 年間第32主日のミサ  10:30
12日㊏ 第2週につき、ミサはありません
13日㊐ 第2週につき、ミサはありません
19日㊏ AC地区 王であるキリストのミサ 10:30
20日㊐ BD地区 王であるキリストのミサ 10:30
26日㊏ BD地区 待降節第1主日のミサ  10:30
27日㊐ AC地区 待降節第1主日のミサ  10:30

■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなります。
新しいミサの式次第の冊子を、教会でまとめて購入しました。ミサの時に希望者にお渡ししますので、受け取りになられたら必ず冊子にご自分のお名前をご記入ください。なお、1冊100円の献金お願いします。

■11月は死者の月です。11月中の主日のミサの中で、死者のための祈りが捧げられます。
お祈りを依頼されます方は、聖堂後ろに置いてあります所定の封筒に、祈ってほしい方のお名前をお書きの上、お志を入れてミサ開始の10分前までに奉納盆に置いてください。

■京都司教区いのち・平和・環境委員会主催 いのち・平和・環境の日の集いon ZOOM
「外国につながりのある子どもたちの学習支援」
講師:オチャンテ・村井・ロサ・メルセデス氏(桃山学院教育大学准教授、上野教会信徒)
日時:2022年11月12日(土)10時~11時
申込締切:11月10日(木)
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_72d08fb5e1e2431082da0713ba66d00b.pdf

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第32主日のミサ
https://youtube.com/watch?v=K_f6Wt6zywI&feature=share&utm_source=EKLEiJECCKjOmKnC5IiRIQ

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ20章27~38節)

[そのとき、]復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の物語は、人間の生死をどのように捉えるかという問題です。イエスさまの時代、ユダヤ教にはいろいろな宗教的グループがありました。今日出てくるサドカイ派の人々というのは、この地上の生活がすべてだと考えていた人たちです。ですから、富、名声、権力、生活の安定、幸せな生活こそが、神さまからの恵み、祝福であり、そうでない人たちは、神さまから祝福されていないと考えていました。サドカイ派は、エルサレムの神殿を護持する貴族階級で、大祭司もサドカイ派から選ばれていました。彼らはたまたま、そのような身分に生まれたのであって、この地上での安寧を神さまの祝福と捉え、そうでない人々を見下して、差別していた宗教的集団でした。それに対して、ファリサイ派の人々は、律法を守ることによって、自分たちは神さまから受け入れられ、そして、来世で報いを受けられると信じていた人たちでした。そのような意味で、復活があると信じていたのであって、キリスト教でいう復活とは違っています。そして、律法を守れない人々を見下し、差別していました。サドカイ人とファリサイ人では、来世を認めるかどうかで違うように見えますが、結局は人間の基準で信仰心を捉えているという点では変わりはありません。

人間は生きていくとき、自分が今生きている地点からしかものごとを考えられません。そして、その時代の捉え方でしか考えることができません。天動説が当たり前であった時代に、地動説を唱えた人たちは異端として処罰されました。同様にわたしたちも、常に自分を中心にしてしかものごとを捉えることができません。わたしたち人間は、わたしとあなた、そして、それ以外の人々を彼らとして捉えていきます。そして、わたしがいるところを“ここ”として捉え、あなた、彼らのいるところを“そこ”と捉えます。そして、わたしがいるときを“今”として捉えていきます。わたしたちは、どこまでいってもわたしを基準として捉えることしかできません。そして、すべてものごとをわたし中心に考えていきます。ですから、わたしたちは人間である以上、自己中心性を離れてものごとを捉えることはできない、自分本位に生きることしかできないのが人間の本性です。それ自体は悪いことではありません。なぜならそうでなければ、わたしたちは生きていくことができないからです。

しかし、わたしがいつも基準軸ですから、わたしにとって都合の悪いものは悪、都合のいいものは善と捉えていくようになります。それで、わたしにとって、元気で幸せなこと、豊かで成功することは善で、貧しく失敗することや歳を取り、病気になって死ぬことは悪であると捉えていくようになります。こうして、わたしたちは、自分の都合で善悪、幸不幸、善人悪人を自分の周りに作り出していくのです。わたしたちは、自分の都合のいいものは大切にし、都合の悪いものは嫌悪し、どうでもいいものには無関心となっていきます。こうして、人間の愛と憎しみ、無関心ということが起こってくるのです。その基準は、どこまでいっても“わたし”です。

今日のサドカイ派の人の話は、7人の兄弟のうちだれが、その女を妻とすることができるかという問いです。この発想を裏返せば、7人の兄弟皆がこの女は俺のものだと考えているということです。それは、きわめて自分本位ですが、ある意味で人間の当然の考え方なのです。これが、“わたし”を基準にしてしか、ものごとを捉えることができないというわたしたち人間の現実です。そして、その現実の中で、自分が捉えたものを真実であるかのように主張していきます。イエスさまは、このような自分中心にものごとを捉え、それを真実であると主張していくあり方は、わたしたち人間が勝手に作り出している虚構であり、迷いであることを指摘されたのです。

その一方で、わたしたち人間は、“わたし”であることに気づかされるのは、あなた、また彼らという他者の存在を通してです。わたしは、わたしだけでは、わたしにさえなることができないのです。わたしは、わたしだけでは存在しえないものであり、わたしは他の存在によって存在している。つまり、わたしとあなた、また彼ら、この世界、もっと言えば、宇宙とわたしは根っこで繋がっているということなのだと思います。そのことをイエスさまは、「主はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われ、「神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神なのである。すべてのものは、神によって生きているからである」と言われました。つまり、わたしはわたしだけで存在しているのではなく、わたしは根底において神と、宇宙と、すべての生きとし生けるものと繋がっているということを言われたのです。わたしは、わたしだけでは存在できないのにもかかわらず、自分を中心にして捉えていく世界こそが真実であると勘違いしているのです。そして、わたしは自分中心の、ひとりぼっちの世界を作り出していく、それこそが地獄だと言っていいでしょう。つまり、このことが人間の迷いであり、罪であるといってもいいでしょう。

ファリサイ人たちが信じていた死者の復活というものも、来世で自分の業が報われ、自分の願いが叶う世界を死者の復活とか、永遠のいのちと考えていたのに過ぎません。つまり、神さまに認められて、わたしが評価される世界です。イエスさまが説かれた復活、永遠のいのちは、そのような来世のいのちのことではありません。わたしたちも、復活とか永遠のいのちというと、来世のこととか、来世での報いのことだと考えがちです。イエスさまはファリサイ人に、神の国はいつ来るのかと問われたのに対して、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17:20~21)」と答えておられます。つまり、神の国は、時間と空間という人間の基準軸で捉えられるようなものではないと言われました。神の国は、今というこの瞬間に、わたしたちの間に現成している真実であると言われたのです。つまり、神の国とは、今、わたしたちを生かしている大きないのちであり、わたしたち自身もその大いなるいのちの一部であって、わたしたちすべての生きとし生けるものを生かし、すべてを包み込んでいるその大いなるいのちの真実、そのことを神の国と言われたのです。

ですから神の国といっても、どこかにあって、いつか行くとか来るものではなく、今、わたしたちは神の国を生きている、そのことに目覚めることが救いであり、神の国を求めるということなのです。イエスさまは、「あなたがたは大変な思い違いをしている(マルコ12:27)」とはっきり仰いました。神の国は、どこかに、また将来いつか来るのではなく、今生きているいのちそのものが神の国、真実の世界であって、わたしたちはその真実に背を向けて、「俺が、俺が」と言って頑張っている、それが「この女は誰の妻になるのか」、「この女は俺のものだ」と言っているわたしたちであり、「もはやめとることも嫁ぐこともないし、死ぬことがない」と言われた世界とは、もはや「俺が、俺が」といっている“わたし”という主体が絶えた世界、「大いなるいのちの働き」に目覚めた世界が神の国なのです。わたしたちは、その大いなるいのちの働きを指して、神という言葉で呼んでおり、その働きがわたしたちに届いていることを神の国と言っているのです。神の国とは、どこかに楽園があるとか、いつか新しい世界、神の国が来るとか、来世に素晴らしい世界、天国が待っているというお伽話ではないのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。