年間第33主日の福音と勧めのことば
2022年11月13日 - サイト管理者♰主の平和
いよいよ今年の典礼暦も終わりが近づきました。
待降節からは新しいミサの式次第が使用されます。どきどきわくわくしながら、時々間違えたりしながら、新たな歩みを始めていきましょう。
■今後のミサ予定
11月
13日㊐ 第2週につき、ミサはありません
19日㊏ AC地区 王であるキリストのミサ 10:30
20日㊐ BD地区 王であるキリストのミサ 10:30
26日㊏ BD地区 待降節第1主日のミサ 10:30
27日㊐ AC地区 待降節第1主日のミサ 10:30
ミサでの答唱詩編、アレルヤ唱は朗読します。
ミサ参加後2日以内に感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。
詳細は「ミサ実施要項」を必ずお読みください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
■年間第33主日(11月13日)は第6回「貧しい人のための世界祈願日」です。
教皇メッセージをお読みください。
「イエス・キリストはあなたがたのために貧しくなられた」(二コリント8・9参照)
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/10/26/25761/
■京都教区高校生会「冬の集い」の案内が届いています。詳しくは教区のHPをご覧ください。
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_00f9e19e420944c8ba793d8b62ec17bf.pdf
■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなります。
新しいミサの式次第の冊子を、教会でまとめて購入しました。ミサの時に希望者にお渡ししますので、受け取りになられたら必ず冊子にご自分のお名前をご記入ください。なお、1冊100円の献金お願いします。
■11月は死者の月です。11月中の主日のミサの中で、死者のための祈りが捧げられます。
お祈りを依頼されます方は、聖堂後ろに置いてあります所定の封筒に、祈ってほしい方のお名前をお書きの上、お志を入れてミサ開始の10分前までに奉納盆に置いてください。
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■年間第33主日のミサ
https://youtu.be/_BGKaEWmM9w
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福音朗読 ルカによる福音(ルカ21章5~19節)
[そのとき、]ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。
「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。
中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はイエスさまが、終末について語られる箇所です。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか」と問う人たちに対して、イエスさまは、「世の終わりは直ぐには来ない」と答えておられます。イエスさまもその時代の人間でしたから、その時代の歴史観の中で説明し、答えることしかできなかったのだと思います。当時の歴史観では、飢饉とか戦争、暴動が起こり、試練を通してメシアが来臨して、イスラエルの民が再興されるというものでした。そのメシアはダビデの子と呼ばれ、ダビデのような理想的なイスラエルの民の指導者であり、その指導者のもと、イスラエルは国家権力を回復し、理想的な支配が確立されるというものでした。ですから、終末といっても、イスラエル民族を中心とした国家の再興であって、その統治の傘下にすべての民族が入ってくるといった、非常にユダヤ覇権主義の強い思想が人々の間に広まっていました。弟子たちがイエスさまに期待していたことは、そのような強い指導者であり、いつくしみぶかい、十字架上で無力のうちに亡くなっていくような弱いメシアではありません。ですから、イエスさまの十字架上の死は、失敗、挫折であって、メシアの来臨は叶わなかったというのが、弟子たちを含めた当時の人々の理解でした。当時の人々は、終末を、ある時間と空間の中において起こることとしてしか理解することができませんでした。ですから、「いつ、どこ」で起こるのかということが問題になったわけです。
キリスト教は、このユダヤ教の終末思想を受け継ぎました。ですから、キリスト教の中では、メシアの来臨はイエスさまによって果たされ、復活によって終末が始まり、私審判(個人の死)、イエスさまの再臨と最後の審判によって、神の国が完成されると考えられていました。つまり、終末を時間の流れの中で起こることとして理解しました。しかし、これは終末について、また永遠である神さまを時間と空間の事象として捉えようとしたものであり、ある時代の中で形成されていった限界ある歴史観に過ぎません。今日、科学や物理学が発展によって、宇宙の成り立ちや時間と空間について新たな解明-時間と空間の概念は人間のひとつの尺度でしかない-がなされている現代においては、そのような教えは非現実的なものとしてしか映らなくなっています。カトリック教会では、それを今日でも同じように教えるわけですから、教会の教えは教会の教え、現実は現実で別のものだという割り切りが、キリスト者の信仰生活の中に蔓延してしまい、教会の教えは理想、綺麗事であって、わたしたちの人生には何の影響も与えないものになってしまっているのが現実です。
もうひとつの問題は、このような終末についての教えの根底にあるのは、イエスさまの時代の人々が期待していた、現生での個人の生の充足、民族の充足、言うなれば至福の生活、完成された世界を終末として捉えていたということです。これは、実はこの世の生存の充実がいのちの唯一の究極的目的だと考えている現代人と同じ考え方です。結局は、自分にとって幸せで有意義な人生や国家を築き上げるということが、目的になっているのに過ぎないということです。キリスト教は、ユダヤ教の終末思想を少しだけ修正し、その目的を時間的に延長し、それを来世に設定しただけに過ぎません。しかし、それは結局人間の願望が作り出した願いであって、イエスさまの願いとは異なっているのではないでしょうか。たとえ、それがキリスト教化された終末についての教えであったとしても、時間的流れの中で、キリスト教という枠組みの中だけでの充足を考えている限り、それは根本的に違うのではないかと思います。この世の、あるいは来世のいのちの生存の充足が、唯一の目的だと考えている個人、国家、信仰である限り、それはいのちの本来のあり方に背いたものであり、真に生きられていない姿に過ぎないように思います。真の宗教というものは、夫々の宗教の教えている自我中心的な立場を超えて、すべての生きとし生けるもののうちに働いている普遍的ないのちそのものの要求に自分をまかせていくということではないでしょうか。それが、自分の人生、自分の国、自分の信仰だけで完結しようというのであれば、それは宗教本来のあり方ではありませんし、人間としてのあり方にももとるものであると言わざるを得ません。
しかし、わたしたちは自分のこと、自分の近くにいる人のことからしか考えられないのも事実です。わたしたちが大切に思ったり、悲しんだりするのは、自分の近くにいる人のことであって、いくら地球の裏の人々のことも同じように大切にしましょうと叫んでも、それは言葉だけで、わたしの近くにいる人と同じように大切にすることは不可能です。ですから、わたしたちは、時空を超えてイエスさまがされたようにすべての人に平等にすることなど出来ないのです。わたしたちの中にあるのは大切な人、嫌いな奴、そしてどうでもいい人々です。世界の人々を同じようにといっても、出来ないのです。先ずは、その人間としての限界、悲しみを謙虚に見つめていく視点が必要なのではないでしょうか。
そもそも、わたしたちが自分を中心にして世界を作りだしている限り、わたしは虚構を作り出しているだけであって、それは真実ではないのです。宮沢賢治のことばに、「世界がぜんたい幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない」というのがありますが、それこそがイエスさまの心であって、わたしたちはどれだけ頑張ってもそのようにはできないのです。結局のところ、わたしのことからしか考えられないというわたしの痛み、悲しみを見つめるとことからしか始まらないのではないでしょうか。ですから、この度し難いわたしという存在がどうにかならない限り、世界が幸せになることもない、つまりわたしというものが絶えない限り、世界が、わたしが幸せになることもないということなのだと思います。ですから、終末はわたしたちへの報いとしてあるのではなく、わたしたちに対する問いとして存在するのだということなのです。