待降節第1主日の福音と勧めのことば
2022年11月27日 - サイト管理者♰主の平和
父である神よ、
あなたは救いを待ち望むすべての人とともにいてくださいます。
待降節を迎えたわたしたちの心を照らしてください。
争いや対立が絶えないこの世界にあって、
キリストの光を頼りに歩んでいくことができますように。
<待降節第1主日の集会祈願より>
■今後のミサ予定
11月
27日㊐ AC地区 待降節第1主日のミサ 10:30
12月
3日㊏ AC地区 待降節第2主日のミサ 10:30
4日㊐ BD地区 待降節第2主日のミサ 10:30
10日㊏ 第2週につき、ミサはありません
11日㊐ 第2週につき、ミサはありません
17日㊏ BD地区 待降節第4主日のミサ 10:30
18日㊐ AC地区 待降節第4主日のミサ 10:30
24日㊏ AC地区 主の降誕日中のミサ 10:30
25日㊐ BD地区 主の降誕日中のミサ 10:30
31日㊏ BD地区 神の母聖マリアのミサ 10:30
1月
1日㊐ AC地区 神の母聖マリアのミサ 10:30
ミサでの答唱詩編、アレルヤ唱は朗読します。歌は歌いません。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。詳細は9月17日㊏にお送りしましたメール「ミサ実施要項」を必ずお読みください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
■京都教区時報12月号が発行されました。冊子は聖堂後ろに置いてあります。京都教区のHPからも読めます。12月号には、花井神父様の記事が掲載されていますので、どうぞご覧ください。
https://kyoto.catholic.jp/jihou/541.pdf
■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなります。新しいミサの式次第の冊子を忘れずにお持ちください。冊子には必ずお名前をお書きください。
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■待降節第1主日のミサ
https://youtu.be/ug_RnYR5pPw
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マタイによる福音(マタイ24章37~44節)
[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日から、待降節に入りました。待降節は大きく分けると2つの部分に分かれます。待降節第1主日から12月16日までと、12月17日から24日までとなります。前半は第2の来臨と言われるイエスさまの終末的再臨の希望が祝われ、後半は第1の来臨、つまりイエスさまの降誕に向けた準備の期間となっています。そこで、今日はイエスさまの来臨ということについてお話ししてみようと思います。
カトリック教会の教えにおいては、イエスさまの来臨を2つの来臨として教えます。第1は神のみことばの受肉、救い主であるイエスさまのこの地上での誕生です。第2はイエスさまが審判者として再臨、最後の審判が行われるというものです。その発想自体は、ユダヤ教の終末思想をそのままキリスト教化したものであって、現実がそのようであるかどうかは別の問題です。仏教では真如の世界を教えるために、人間のレベルに合わせて分かりやすく話をすることを方便と言いますが、主の来臨を主の降誕と主の再臨の2つに分けて説明するというのも、ひとつの方便であると言えるでしょう。方便というと、「嘘も方便」ということを考えますが、仏教における方便の捉え方は、嘘の教えという意味ではなく、どこまでも真如の世界を理解できない人間に仏が如来として来て、人間に分かりやすく、その教えを説かれることを言います。ですから、イエスさまが神の国をたとえで話されたことと似ています。神の国のたとえは、神の国そのものを言いあらわしているものではなく、人間の言葉で言いあらわしえない神の国を人間に分かるよう説明しようとするものです。ですから、最後の審判や終末についての教え、主の降誕物語などは、それを事実として捉えるのではなく、真理をあらわすためのたとえ話、方便であると言えばいいでしょう。
わたしたちが聞き慣れているイエスさまのベトレヘムでの降誕物語も、イエスさまが亡くなって半世紀近く経ってから書かれたものであり(マタイ、ルカ福音書)、イエスさまが亡くなった直後の初代教会の人々やパウロたちにとっては問題にならなかった事柄です。時代を経るに従って、人々への教化のために、イエスさまの教えを時系列で描くという福音書という文学類型が成立し-福音書はイエスの伝記ではなく、イエスの生涯を時系列で描くことで福音のメッセージを伝えるという文学様式-、その中で描かれたものということになります。むしろ、主の来臨のもっとも本質的な教えは、ヨハネ福音書1章に描かれていると言えます。「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった…」と言われる箇所です。そこでは、はじめにみことばがあり、みことばは神であり、みことばによってすべてが成って、みことばはいのち、光であって、光はこの世を照らしていたが、この世は光に背を向けていたことが語られます。そしてついに、「言は肉となって、わたしたちに間に宿られ」と述べることで、わたしたちはいのち、光であるみことばによって救済されることが描かれています。明治時代の仏教学者の曽我量深のことばに、「如来は我なり、されど我は如来に非ず。如来我となって我を救いたもう」というのがあります。そのことばは、キリスト教的に言えば、まさに神の御子の受肉、主の贖いという救いの神秘を解き明かしていると言えるでしょう。
しかし、わたしたちはどこまでいっても、主の来臨を時間の経過の中で、主の降誕と主の再臨との2つに分けて考えることしかできません。つまり、2000年前のユダヤのベトレヘムでの出来事と、その後、いつか将来起こるのであろう主の再臨、最後の審判とに区別していきます。ヨハネ福音書では、みことばである「光は世に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と書かれています。そこでは、みことば、光を拒否しているわたしたち人間の姿が描かれ、そのこと自体が裁きとなっていると言われています。ですから、ヨハネ福音書においては、受肉の出来事自体が人類の救いの出来事であり、同時に人類への問いかけ、つまり裁きとなっていることが描かれていきます。ヨハネ福音書の特徴は、人間に分かりやすく説くということではなく、神さまの視点から物事を捉えていこうとすることです-そもそも、神秘を人間に分かりやすく伝えようとすること自体、不可能なことなのですが-。ヨハネにおいては、「永遠における今」ということが強調されますので、救いの出来事を時間の経過の中で描くのでなく、永遠における神の救いの働きそのものが説かれていきます。ですから、イエスさまの降誕は2000年前のユダヤのベトレヘム物語ではなく、今、わたしの中で神のみことばが来てお生まれになること、わたしの魂のうちにおける御子の誕生として捉え、その働きが、今、わたしに届き働いていることが説かれていくのです。
このことは、決してあたり前のことではないのです。皆さんがバチカンに行ったら、教皇様がわざわざ迎えに出てこられるでしょうか。出てこられませんね。出てこられるというのなら、それこそ余程の方である場合でしょう。しかし、たとえ教皇様は出て来られなくても、イエスさまはわたしがどこかに行かなくても、わざわざわたしのところまで来てくださるんです。それが、主が来られるという主の来臨の意味です。教皇様は来られなくても、イエスさまがわたしのところにわざわざ来てくださる、これはよくよくのことだということなのです。ですから、イエスさまの訪れ、誕生をわたしが受け入れないというのは、大変失礼なことにあたりますよね。だから、それを裁きということばで表現したのだということなのです。これもひとつのたとえ、方便なのです。わたしがイエスさまを訪ねるのではなく、イエスさまがわたしのところに来てしまわれるわけです。わたしの罪とか欠点がどうのといったことは何も関係ないのです。わたしたちがイエスさまに背を向けているということが本当はどういうことか、少しイメージができたのではないでしょうか。
またわたしたちは時間の流れの中で考えますから、自分の死のときまで、終末のときまで、イエスさまの訪れが時間的に猶予されていると錯覚してしまい、決して、今というときを生きようとしない危険性が起こってきます。しかし、イエスさまがわたしたちのうちにお生まれになるのは、わたしたちが生きている、今というこのときをおいて他にはないのです。待降節はイエスさまの降誕の準備で、時間の中のこととして強調することによって、わたしたちがイエスさまの来臨を過去の出来事として捉え、過去を回想するようなノスタルジックな後ろ向きの生き方に陥るか、また将来のこととして捉えようとし、物事を先延ばしにするという生き方に陥ってしまいます。わたしたちは、今、待降節のあり方というものを根本的に見直していく必要があるのではないかと思います。わたしたちは確かに時間の流れの中にいますが、わたしが生きているのは過去でも未来でもなく、今というときなのです。