待降節第2主日の福音と勧めのことば
2022年12月04日 - サイト管理者♰主の平和
12月に入って急に寒くなり、初雪の便りが聞こえてきました。
コロナ禍3度目の待降節、どうぞ体調を崩したりされませんようにお気をつけください。
■今後のミサ予定
12月
4日㊐ BD地区 待降節第2主日のミサ 10:30
10日㊏ 第2週につき、ミサはありません
11日㊐ 第2週につき、ミサはありません
17日㊏ BD地区 待降節第4主日のミサ 10:30
18日㊐ AC地区 待降節第4主日のミサ 10:30
24日㊏ AC地区 主の降誕日中のミサ 10:30
25日㊐ BD地区 主の降誕日中のミサ 10:30
31日㊏ BD地区 神の母聖マリアのミサ 10:30
1月
1日㊐ AC地区 神の母聖マリアのミサ 10:30
地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原
ミサでの答唱詩編、アレルヤ唱は朗読します。
ミサ中の朗読、共同祈願などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
■12月の第1日曜日は「宣教地召命促進の日」です。日本をはじめ、世界中の宣教地における召命促進のために、お祈りと献金をお願いします。
■年末が近づいてきました。お祈りやご奉仕など、今年も高野教会を様々な形で支えてくださりありがとうございました。今年度の教会維持費をまだお納めになられておられない方は、できるだけ年末までに納入してくださいますようお願いいたします。
維持費納入は、以下のいずれかの方法でお願いいたします。
① ミサの時に献金箱に入れる
② 司祭館のポストに入れる
③ 銀行振込
■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなりました。新式次第を使用してのミサです。ご自分のミサの式次第の冊子を忘れずにお持ちください。冊子には必ずお名前をお書きください。
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■待降節第2主日のミサ
https://youtu.be/cN4hDowfDhE
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マタイによる福音(マタイ3章1~12節)
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は洗礼者ヨハネの活動が描かれていきます。洗礼者ヨハネは、メシア到来を準備する悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。さて、悔い改めの洗礼とは何でしょうか。何を悔い改めなければならないのでしょうか。果たして、わたしたちは悔い改めることができるのでしょうか。わたしたちが何かをすれば、洗礼を受ければ、悔い改めることができるのでしょうか。わたしたちはミサの前にも、「わたしたちの心を改めましょう」と言いますが、わたしたちが心を改めるとはどういうことなのでしょうか。
現代人のわたしたちは、わたしたちの心、体、いのちは自分たちのものだと思っています。ですから、自分の心や体、いのちを思いのままにできると考えています。実は、それはわたしたちの心や体、いのち、そしてこの自然界は、神さまからわたしたち人間に与えられたものであるというユダヤ・キリスト教的な発想が根底にあるからなのです。ですから、自分の心や体、いのちを自分のものであると考え、それを支配することができると考えているのです。これが、近代ヨーロッパから始まり、現代社会のものの見方ともなっている世界観でもあるのです。このように、先ずわたしという存在を立てて、わたしたち人類がすべてのものの所有者となり、神の代理者としてこの世界を支配し、統治していくという発想はキリスト教のものなのです。心や体、自然界が、わたしたちに与えられ、わたしたちのものであるということですから、わたしたちは当然、それらを自分の力で支配し、コントロールできると考えていくようになります。しかし、現実はどうでしょうか。自然界の支配者、所有者のような顔をして、自然から搾取し続けてきた結果、今、わたしたちは反対にその自然から反逆を受けています。気候変動はそのひとつです。
わたしたちは、心や体もわたしの所有物としてコントールしようとしてきました。しかし、病気がなくなることもなく、死もなくなりません。人の心もコントロールすることはできません。しかし、キリスト教では、努力して頑張って、反省して罪を避けて、善行をしてよい人間になることが、信仰者の信仰のあり方であると教えてきました。それで、いろんなことがうまくいかないとか、不幸になるとか、病気になったりするのは信仰が薄いからであり、自分の心を修めることで、強い信仰をもてば困難を克服できると教えてきました。あるいは、これは神さまからの試練であるから忍耐するようにと教えてきました。これが、キリスト教の信仰理解なのです。しかし、果たしてわたしたちが自分の心を修めることで、信仰を強くし、わたしたちは何かを変えていくことができたでしょうか。わたしたちの信仰は、わたしたちの心のもち方でどうにかなる問題なのでしょうか。
わたしたちは、自分の意志で頑張って心臓を動かし、血液を体の隅々にまで送っているのでしょうか。また、わたしが頑張って呼吸して、体に酸素を取り込み、食べ物を消化し、栄養としているのでしょうか。わたしたちは、腹を立てないように頑張れば腹が立たなくなり、憎しみの心を抱かないように頑張れば憎しみの心が湧かなくなるでしょうか。わたしの中では、毎日6000億個の細胞が死に再生を繰り返し、体のすべて原子は1年でほぼすべて入れ替わると言われています。わたしが、体に命令してそのようになっているのでしょうか。わたしの心とか意志とかに関係ないところで、自然とそうなっているのではないでしょうか。にも関わらず、「わたしがある」と主張している「わたし」とは、一体何なのでしょうか。わたしの心とか、意志とか、意識とはどこにあるのでしょうか。このように考えていくと、わたしたちという人間がいかに不安定で、絶えず移り変わっていくものであるかということが見えてきます。わたしの心も体も、絶えず変化していて、ひとつの状態に留まっていることはありません。だから、わたしたちは罪を告白してもまた罪を犯しますし、反省しても性懲りもなく同じことを繰り返します。
それでは、悔い改めるべきと言われているわたしたちの罪というのは何でしょうか。わたしがわたしであると思っているようなものは、何も永遠なものはないのです。それなのに何か確実なものがあると思い込み、それを真実であるかのように握りしめているのがわたしたちです。それが、物であったり、わたしの考え方であったりします。そして、それを真実であると勘違いし、それを神聖化、絶対化し、それを自他ともに押し付けていこうとします。それが人間の迷いであり、罪であると言えばいいかもしれません。そのようなひとつの固定した状態があると錯覚して、その状態にしがみついてそれに執着する。それが富であったり、権威であったり、地位や名声であったり、よい人間であるということであったり、恩恵の状態であったりします。たとえ、恩恵の状態を握りしめても、すぐに崩れてしまいます。腹も立たない、悪口も言わない、罪も犯さないのであれば、それはロボットになるしかありません。執着というと悪いものというイメージがありますが、わたしがよい人間でありたいと思うのも、わたしが人助けをしたいと思うのも、所詮はわたしの執着に他ならないのです。わたしたちは様々なものに執着していきますが、究極的に最後の執着は、「わたしが」、「わたしの」という我執です。結局は自分を中心にしてすべてを据えて、すべてを理解していこうとする我執が問題なのです。よい人間になりたいと思うのも、所詮「わたし」が思っている限り、わたしの執着なのです。わたしたちは、この我執から離れることができないことこそが、問題なのです。そして、その我執がありとあらゆる罪と傲慢を作り出していくのです。
ですから、わたしたちは自分で頑張って、努力して悔い改めるのも、わたしが自分でよい人間になりたいと思うのも我執に他なりません。そのような、わたしというものに執着しているわたしの身が知らされること、そしてわたしの我執が破られることこそが、本当の意味での悔い改めなのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ」と言って、わたしたちにこの身を知らせ、この我執の身が破られることの必要性を告げ知らせました。しかし、この身が知らされ、この身が破られるのは水の洗礼、つまり人間の業によってではなく、聖霊と火による洗礼、イエスさまの到来によってしか成し遂げられることはないと、ヨハネは宣言しました。ヨハネの時代までは、人の業、力による悔い改めであり、真の悔い改めは人の力によってなされるものではないことが知らされます。ですから、先ずわたしたちが、自分の力で悔い改めることはできないことに気づく、という悔い改めることが必要なのではないでしょうか。こうして、イエスさまの到来、イエスさまとの出会いだけが、わたしたちをこのわが身から、わたしを解き放つことができるということを知らせていくのです。ですから、イエスさまの到来そのものが福音であり、恵みそのものなのです。