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教会からのお知らせ

待降節第4主日の福音と勧めのことば

2022年12月18日 - サイト管理者

♰主の平和

4本目のろうそくに火がともり、いよいよ待降節第4主日となりました。
寒さも厳しくなってきましたし、コロナの感染者も増加傾向です。
どうぞご自愛の上、良いご降誕祭をお迎えください。

■今後のミサ予定 
12月
11日㊐ 第2週につき、ミサはありません
17日㊏ BD地区 待降節第4主日のミサ   10:30
18日㊐ AC地区 待降節第4主日のミサ   10:30
24日㊏ AC地区 主の降誕日中のミサ   10:30
25日㊐ BD地区 主の降誕日中のミサ   10:30
31日㊏ BD地区 神の母聖マリアのミサ  10:30
1月
1日㊐ AC地区 神の母聖マリアのミサ   10:30
7日㊏ 第2週につき、ミサはありません
8日㊐ 第2週につき、ミサはありません
14日㊏ AC地区 年間第2主日のミサ    10:30
15日㊐ BD地区 年間第2主日のミサ    10:30
21日㊏ BD地区 年間第3主日のミサ    10:30
22日㊐ AC地区 年間第3主日のミサ    10:30
28日㊏ AC地区 年間第4主日のミサ    10:30
29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ    10:30

地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の朗読、共同祈願などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

■京都教区時報2023年1月号が、京都教区のホームページにアップされました。
司教さまの年頭書簡が掲載されていますのでお読みください。
https://kyoto.catholic.jp/jihou/542.pdf

■年末が近づいてきました。お祈りやご奉仕など、今年も高野教会を様々な形で支えてくださりありがとうございました。今年度の教会維持費をまだお納めになられておられない方は、できるだけ年末までに納入してくださいますようお願いいたします。
維持費納入は、以下のいずれかの方法でお願いいたします。
① ミサの時に献金箱に入れる
② 司祭館のポストに入れる
③ 銀行振込

■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなりました。新式次第を使用してのミサです。ご自分のミサの式次第の冊子を忘れずにお持ちください。冊子には必ずお名前をお書きください。

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■待降節第4主日のミサ
https://youtube.com/watch?v=7K0iP1MkW5A&feature=shares

■京都教区中学生会/高校生会・冬の集いの案内が届いています。
中学生会 https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_64658d15db054082ac4492bca6a05e25.pdf

高校生会 https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_00f9e19e420944c8ba793d8b62ec17bf.pdf

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福音朗読 マタイによる福音(マタイ1章18~24節)

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、
二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はマタイ福音書から、イエスさまの誕生の顛末が描かれていきます。わたしたちは、マタイはヨゼフの立場からのイエスの誕生物語であり、ルカはマリアからの誕生物語であるとか、受胎告知とか、聖霊による懐胎とか、イエスさまはベトレヘムで生まれたとかいろんな事を聞いています。しかし、そのようなことをわたしたちが知ったとしても、またいろんな教会の教えを覚えたとしても、実はそれはほとんど意味がありません。わたしたちを救うのは神学や聖書学、教会の教えではありません。それをわたしが覚えて帰ったとしても意味がないのです。聖書は神のことばですが、それは人間の手で編集された物語であり、それをまた聖書学者や説教者が解釈し、人間のことばとして説明します。しかし、そのような話を聞いただけでは、わたしたちは救われるということはありません。すべての宗教には教学や聖典がありますが、それはひとえにわたしたちを信仰に導くためのひとつの方法です。これを仏教では方便と言います。ですからカトリック教会でも、神学や聖書についての知識を深めることと信仰とは同じではないのです。

カトリック教会はいろいろな教義や教えをもっていますが、それは単に教義を守ることが目的ではなく、信仰のためなのです。信仰ということばは、語源からして真理と同義語ですが、その真理-それが宗教の本質ですが-を説明するために、いろんなことを教義として説明しようとしてきました。それがかえってキリスト教の本質が何であるかを見えにくくし、わたしたちに伝えられている真理を複雑にしてしまっています。教義とか聖書についてのわたしたちの捉え方、関わり方について間違えてはならないのです。難しい教義や聖書を理解することが信仰ではありません。いくら、教義を勉強して理解しても、聖書の解釈を知っていても、それは人間の業、人間の頭で考えていることであって、信仰とは関係ないどころか、わたしたちの信仰生活の妨げとなってしまいます。わたしたちは人間のことばを通してしか、真理である神のことばを聞くことはできませんが、ただ人間のことばを聞いているだけでは救われません。よく、今日のお話はよかったとか、分かりにくかったというような反応を聞きますが、それは説教者や講師の話を聞いているだけで、人間のことばを聞いているだけにすぎません。つまり、自分にとって心地よいことばか、そうでないかを聞いているだけなのだということになります。確かに聖書にしても、聖書の解き明かしである説教や講話にしても、人間のことばを通してしか神のことばを聞くことはできませんが、その人間のことばを通して響いてくるものを聞く、つまり人間のことばの中を通って響いてくる神のことばを聞くということが大切なのです。人間のことばを通して、イエスさまが直々にわたしに語りかけてくださる、その“神のことば”を聞かなければならないのです。そのことを聞くものも、語るものも心得ておかなければならないのです。自分の得手に聞き語ることを、重々戒めておかなければなりません。

今日の福音で、天使は生まれてくる子をイエスと名付けなさいと言いました。そこで天使が言ったとか、ヨゼフがどうしたということが大切なのではありません。イエスという名は、「わたしはあなたを救う」という名です。ですから、「わたしはあなたを救う」「その子が自分の民を罪から救う」ということばが、「わたしはあなたを救います」というイエスさまのわたしへの直々の声が聞こえてくること、それが信仰なのです。わたしがどう聞こえたとか、わたしがどう理解して納得したかではないのです。「わたしはあなたを救う」ということが、キリスト教の宗教としての真理であり、その真理がわたしに呼びかけられているということが信仰なのです。信仰というと、わたしが信じることとして理解されがちですが、そうではなく、キリスト教が宗教としてわたしたちに伝えようとする単純な真理を信仰というのです。ですから、わたしたちにイエスさまの真実、真理、真がわたしに届いているその働きを信仰というのです。わたしが、イエスさまを信じますとか、わたしが何かをする以前にある、イエスさまがわたしを救うと誓われた真実が信仰なのです。ですから、ヨゼフがどうの、マリアがどうの、ベトレヘムがどうのということは、わたしたちを真理へと導くための手段、方便であって、わたしたちの信仰と直接関係ないのです。カトリック教会はこの真理周辺のことが多すぎて、何が真理の本質であるかが非常に見えにくくなっているという状況があります。司祭が言ったからとか、司教が言ったから、教皇が言ったからではないのです。誰が言ったのでも構いませんが、とかくすると、聖職者や聖人たちが言ったことをありがたがる傾向が見られます。誰が言ったかが問題ではなく、イエスさまが直々に語りかけてくださること-特別なお告げとかご出現ではなく-、イエスさまがわたしを呼ぶ声が聞こえた、「おまえを救う」ということばを聞くことがすべてなのです。教会は人類をイエスさまへ導くための道具、秘跡、方便であって、教会はそのために奉仕者に過ぎません。イエスさまより、前に出ようとする教会は、人々をイエスさまに導かないばかりか、妨げの石となってしまうのです。イエスという名、「わたしはあなたを救う」という単純な信仰の真理が、キリスト教の宗教としての魂なのです。それを伝えるために、聖書があり、教義があり、教会があるのです。

今日、待降節第4主日にあたって、わたしたちはイエスという名、「わたしはあなたを救う」というイエスさまの声がわたしに届いていることに、改めて気づかせていただきたいと思います。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。