神の母聖マリアの福音と勧めのことば
2023年01月01日 - サイト管理者♰主の平和
あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
神様の祝福に満ちた1年となりますように。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」
(第1朗読 民数記 6章より)
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■2023年「世界平和の日」教皇メッセージ(2023.1.1)
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/12/26/26176/
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■京都教区青年のための黙想会のご案内/2月4日(土)
お知り合いの青年にお声掛けください。
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_1592923a00914fb791f82f63437828e7.pdf
■今後のミサ予定 1月
1日㊐ AC地区 神の母聖マリアのミサ 10:30
7日㊏ 第2週につき、ミサはありません
8日㊐ 第2週につき、ミサはありません
14日㊏ AC地区 年間第2主日のミサ 10:30
15日㊐ BD地区 年間第2主日のミサ 10:30
21日㊏ BD地区 年間第3主日のミサ 10:30
22日㊐ AC地区 年間第3主日のミサ 10:30
28日㊏ AC地区 年間第4主日のミサ 10:30
29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ 10:30
地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原
ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
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福音朗読 ルカによる福音(ルカ2章16~21節)
[そのとき、羊飼いたちは]急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、[彼らは、]この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音は、主の降誕の夜半のミサで朗読された羊飼いへの天使のお告げの続きの箇所です。この箇所は、今でも主の降誕の早朝のミサで朗読される箇所です。主の降誕のミサは、夜半のミサ、早朝のミサ、日中のミサと3回のミサがあり、夜半のミサ、日中のミサは行われますが、現在早朝のミサが行われることはほとんどありません。3回のミサは、夫々別のミサではなく、主の降誕という出来事を、3つの観点から描いているということができます。その頂点は日中のミサのヨハネ福音書の朗読ですが、いずれも人間の救いというものが何であり、それがどのように成されていくのかということが解き明かされていきます。今日の福音は、わたしたちの救いは具体的にどのようなものか、どのように成されていくのかが断片的に描かれていきますから、そのことをお話ししたいと思います。
神の救いは、2千年前のベトレヘムでのイエスさまの誕生によって始まったかのように思われていますが、確かに人間の側から見るとそのように見えるかもしれません。しかし、それはあたかも映画のワンシーンのようなものにすぎません。そもそも救いというものは、すでに完成している永遠の真実であって、それを描いているのがヨハネ福音書です。それに対して、ルカやマタイは映画のワンシーンだけを切り取って、それを断片的に描いているようなものだと言ったらいいでしょう。あるいは広大な自然の風景やいのちの営みの一瞬を描いた絵画や写真のようなものだとも言えるでしょう。救いというものはひとつのシーンではなく、いのちの営みそのものであり、全体であると言うことができます。しかし、時空の中に生きているわたしたち人間にとってはそれが分かりませんから、そのときの状況に合わせて、救いというものを具体的に、つまり分かりやすくワンシーンとして説明しようとします。それが、マタイ、ルカの描き方であり、今日の福音の「羊飼いが探し当てた」、「マリアとヨゼフの間にいる」、「飼い葉桶に寝かせてある」、「乳飲み子」となるわけです。そして、「その名はイエス」であると言われるのです。それでは、人間の救いというものがどのように成されていくのかを今日の箇所から具体的に見てみましょう。
先ず、「羊飼いが探し当てた」ということは、その方は誰もが探し求めることができる方であるということです。当時のユダヤ世界で羊飼いは、人間として最低の仕事でした。ユダヤ人は、元々は遊牧民でしたが、定住生活に移行していくなかで、羊飼いはモーセの律法を守ることができない職業のひとつになっていきます。まず第1に、安息日を守ることができません。生き物である羊相手の仕事ですから、今日は安息日だからと仕事を休むわけにはいきません。ですから羊飼いは、律法を守れない人たちイコウル罪人としてみなされていきました。多くは、エルサレムなどで罪を犯した人たちや奴隷の職業となっていきました。イエスさまを最初に探し当てた人たちが羊飼いであるということは、イエスさまはすべての人が捜し求めることができる救い主であるということです。その人がどういう人であるか、老少善悪を問わないということです。
次に、「マリアとヨゼフの間にいる」ということは、その方はすべての普通の人々、生活者の間におられるということです。イエスさまは特別な人たちのため、選ばれた人たちのためではなく、まったく普通の人々の間におられる方であるということを意味しています。「飼い葉桶に寝かせてある」ということは、その方はすべての人の食べ物としておられるということです。食べ物は自分の存在様式をなくして、他のいのちに変化して他のいのちを養います。この地球上の生き物はすべて食物連鎖の内にあり、いのちを分かち合いながら、もう少しはっきり言うと弱肉強食という食物連鎖によって成り立っています。弱肉強食はいけないという人がいるかもしれませんが、動植物界においては、それは秩序が保たれた食物連鎖です。しかし、人間だけが知恵をもっており、食物連鎖から逸脱した弱肉強食の頂点に立っていると勘違いしています。これが地球規模の環境破壊を作り出しているのです。人間も他の動植物も、他の生命体からいのちを分けてもらって、自分のいのちを保ち、種族を保ってきました。しかし本来、生命体がいのちを分かち合うという食物連鎖をまったく逸脱した、自我に捉われた弱肉強食を是としているわたしたち人間に、イエスさまがご自分のいのちを差し出すことによって、イエスさまがこの世界の食べ物、いのちそのものであるといういのちの本来の姿を示されたのです。
「乳飲み子」というテーマは、イエスさまはひとりの人間として、もっとも弱く貧しく、自分ひとりで何もできない、生きていくことができないようなものとして来られたことを描いています。神さまであれば、上から手を差し伸べて人間を救うこともお出来になったはずです。しかし、イエスさまが望まれたことは、自らが人間自身となること、しかも幼子となることで最も弱くなること、十字架にかかることで最も堕落したものとなること、罪となることによって、人間のすべての人生と一致すること、人間としてすべての苦しみ嘆き、人生に迷い続けるわたしとなられたということなのです。実に、イエスさまはわたしとなられたのです。これが、わたしたちともにおられる神、インマヌエルという意味なのです。
そして、この方をわたしたちは“イエス”とお呼びするということです。イエスという名は、「わたしはあなたを救う」という意味です。ですから、イエスさまがわたしの救いなのです。わたしたちはこのイエスさまと出会うことが、わたしの救いであり、人類の救いであるということなのです。そのことが、今日の福音からわたしたちがいただくことなのです。「みことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」。ここに、キリスト教のすべてが凝縮されています。これ以外の別の教えや教義が何か必要でしょうか。すべてはこの真実を解き明かすためでしかありません。仏教学者の曽我量深のことばを思い出します。「如来は我なり。されど我は如来に非ず。如来我となりて我を救いたもう」。この「わたしはあなたを救う」というイエスさまの呼び声がわたしに届いていることが信仰であり、救いなのです。このイエスさまの呼びかけがわたしに届いている事実を、わたしが信じることで救われるのではないのです。それならば信じることが救いの条件になってしまいます。もしそうであれば、わたしが信じたか信じないか、わたしがどれだけ疑わないで、強く信じられたかという自分のはからいの域から一歩も出ることはできません。信仰はわたしの心のあり方ではなく、イエスさまのわたしへの働きが信仰なのです。だから、わたしはそのイエスさまと出会わせていただくこと以外ないのです。