主の公現の福音と勧めのことば
2023年01月08日 - サイト管理者♰主の平和
2023年、お天気に恵まれ、穏やかな年の始まりとなりました。
皆さまの上に、この1年、神さまの豊かな祝福がありますように。
イエスさまがいつも共にいて、共に歩んでくださいますように。
私たちが聖霊の導きを信じて歩めますように。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
「すべての民の光である父よ、
あなたはこの日、
星の導きによって御ひとり子を諸国の民に示されました。
信仰の光によって歩むわたしたちを、
あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください。(主の公現の集会祈願より)」
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■名誉教皇ベネディクト十六世が、12月31日に帰天されました。永遠の安息をお祈りします。
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/12/31/26205/
■司教年頭書簡 分かち合い募集 京都司教区福音宣教企画室より
『コロナ時代を生きる信仰Ⅲ』―わたしのシノダリティを創ろう―を読んで気づいたこと、感想などをお寄せください。
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■京都教区青年のための黙想会のご案内/2月4日(土)
お知り合いの青年にお声掛けください。
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_1592923a00914fb791f82f63437828e7.pdf
■今後のミサ予定
1月
7日㊏ 第2週につき、ミサはありません
8日㊐ 第2週につき、ミサはありません
14日㊏ AC地区 年間第2主日のミサ 10:30
15日㊐ BD地区 年間第2主日のミサ 10:30
21日㊏ BD地区 年間第3主日のミサ 10:30
22日㊐ AC地区 年間第3主日のミサ 10:30
28日㊏ AC地区 年間第4主日のミサ 10:30
29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ 10:30
地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原
ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
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福音朗読 マタイによる福音(マタイ2章1~12節)
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
主の公現の祝日は伝統的には1月6日に祝われ、12月25日の主の降誕の祝日より起源が古く、救い主イエスのこの世界への顕現を祝う重要な祝日でした。つまり、古代教会ではイエスさまの誕生そのものよりも、イエスさまがご自身をこの世界に公に現わされたこと自体が重要なことだったのです。それをもっと神学的に、また本質的に示すものは、主のお告げのお祝い日です。これは公会議前までは、マリアへのお告げの祝日として、マリアのお祝い日になっていました。しかし、お告げのお祝い日はマリアのお祝い日ではなく、「神のみことばが人となり、わたしたちの間に住まわれたこと」を祝う、もっとも本質的な主イエスのお祝い日であるということなのです。教会の中でお祝い日というと、聖人方のお祝い日だと思われがちですが、根本的なお祝い日はいわゆる誰かの記念日でもなく、神さまのこの世界への働きかけ、救いの歴史を記念するということです。そうしてみると、現在のカトリック教会の祝日は、救いの歴史から微妙に焦点がずれた祝い方をしているということになります。キリスト教のもっとも根本的なお祝い日である復活祭であってさえも、イエスさまの受難と死によってイエスさまの愛が永遠化されたことを祝いますが、復活によってイエスさまの愛が永遠化されたのではなく、もともとイエスさまの愛は永遠であるということに変わりはありません。
わたしたちは主の受肉の神秘を、主のお告げ、主の降誕、主の公現、主の洗礼として、時系列の中で起こった出来事として祝っていきますが、「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と書かれていること、つまり神が神であることを神が人類となることでわたしたちに現わされたこと、それが根本にあることであり、主の公現のお祝い日の意味なのです。神さまが神さまであることが公になることが神さまの栄光ですが、ではどのように栄光が現わされるかというと、神さまが人間となってわたしたちの間に宿られたことによってです。つまり、わたしたち人間、またこの世界は神の栄光を現わしているということになります。どういうことかというと、何処の誰であってもその人は神を宿しており、人間と不可分であるこの世界もまた神を宿しているということなのです。洗礼を受けてキリスト者になった人たちだけのことではないのです。神の救いというものは無限です。しかし、どの宗教でも、自分たちの教えが一番正しいとか、自分たちの宗教でしか救われないというようなことを言い出します。そうすると、せっかくのイエスさまの教えを有限なものにしてしまう危険があります。
東から来た占星術の学者たちは、伝統的な絵画では、アフリカ大陸から、ヨーロッパ大陸から、アジア大陸から来た人として描かれています。または老人、壮年、青年としても描かれています。つまり、イエスさまは全世代の、全人類の救い主であることを言おうとしています。ユダヤ人やキリスト教の人たちだけのためではありません。彼らは星に導かれて、真の普遍的真理であるイエスさまを見出しました。この普遍的真理はすべての生きとし生けるものを包み、生かしている真理です。それは誰のものでもない普遍的な真理です。ですから、そのような真理を見出したなら、いかなる権威、地位、学問、制度といった人間的な何かによって認めてもらう必要がなくなります。ですから、占星術の学者たちは、もはやヘロデのもとに戻る必要がありませんから、別の道を通って帰っていきました。しかし、多くの宗教がその真理を証しすることから少しずつ離れ、人間的なものに拘り、教えるための宗教、聖職者のための宗教、教団のための宗教に堕落していきます。それは、自分自身が絶えまなく真理に触れることを怠ったがゆえの結果です。その真理を自分たちのものだと思い込み、自分たちのものとして抱きかかえるとき、その真理はもはや普遍的な真理ではなく、有限な人間の手垢にまみれたものになってしまうのです。それが、宗教の中の分派、派閥、グループ、教義を生み出していきました。
宗教というのは、一定に教義を受け入れて信じるというようなことではなく、わたしたちが大宇宙という広大無辺なものの力によって生かされているということへの自覚に他なりません。イエスさまは、そのような宇宙の広大無辺ないのちそのもの、真理そのものとして、ひとりの幼子のうちにご自身をわたしたちに現わされたのです。わたしたちはキリスト教というひとつの宗教を通して、その宇宙的真理に触れさせていただいているのです。ですから、キリスト教だけが素晴らしいとか、カトリックだけが唯一の救いだという必要はないのです。そのようなことを言い出すと、真理の教えは人間の手垢にまみれた抹香臭い教えになってしまいます。イエスさまの教えに、抹香臭い匂いなどあるはずがありません。しかし、現実には人間の匂いがくっついてくるのです。イエスさまの教えを抹香臭くしているのは、人間の匂い、わたしの匂いなのです。
イエスさまは完全な真理、愛の人であるというのは、この「わたし」という匂いがしなかったということです。その姿が幼子です。幼子は、「わたし」という以前のいのちそのものです。ですから、わたしという匂いがしません。ですから「こうしたら救われる」とか、「ああだから救われる」というような教えにはならないのです。「ああだ」「こうだ」と考えているのは、すべて「わたし」であって、そのわたしが匂いをつけているだけであって、わたしという匂いがなくなった状態を救いというのではないでしょう。わたしたちは自分でこうしよう、ああしようと思ってこの世に生まれてきたわけではありません。そんなことを思わず、ただ自然に生まれてきたのではないでしょうか。真理を見出すということは、この存在自体の安らかさをわたしたちが、もう一度体験することではないでしょうか。イエスさまにまかせる、イエスさまを信頼するというはそういうことだと言えるでしょう。幼いイエスさまは、わたしという匂いのないその姿をもって、真理であるご自身を現わしておられるのだと言えるでしょう。実に、イエスさまは特別なことの中ではなく、自然なことの中に、すべての人の中に、すべてのものの中にご自身を現わしておられるのです。