年間第4主日の福音と勧めのことば
2023年01月29日 - サイト管理者♰主の平和
大雪が続いています。
大雪の降った水曜日の朝、知人が道路で転んで大腿部を骨折されました。
昨夜からの雪が、今朝もたくさん積もりました。
ミサに来られるときは、どうぞご無理のないように、そして転んだりしないように、くれぐれもご注意ください。
■京都教区時報2月号が発行されました。
https://kyoto.catholic.jp/jihou/543.pdf
■1月の最終日曜日は、教皇庁が定められた「世界こども助け合いの日」です。世界中のこどもたちの平和を願い、心と健康が守られますように、皆さまのお祈りと献金をお願いします。
■衣笠墓苑参道 車両通行止めについて 京都司教区本部事務局より
大雪により当初の予定が延び、1/31(火)まで樹木伐採のため、墓苑参道は一般車両通行止めとなります。徒歩墓参は可能ですが、足元には注意してください。
■司教年頭書簡 分かち合い募集 京都司教区福音宣教企画室より
『コロナ時代を生きる信仰Ⅲ』―わたしのシノダリティを創ろう―を読んで気づいたこと、感想などをお寄せください。
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■年間第4主日のミサ
■今後のミサ予定
1月
29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ 10:30
2月
4日㊏ BD地区 年間第5主日のミサ 10:30
5日㊐ AC地区 年間第5主日のミサ 10:30
11日㊏ 第2週につきミサはありません
12日㊐ 第2週につきミサはありません
18日㊏ AC地区 年間第7主日のミサ 10:30
19日㊐ BD地区 年間第7主日のミサ 10:30
25日㊏ BD地区 四旬節第1主日のミサ 10:30
26日㊐ AC地区 四旬節第1主日のミサ 10:30
地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原
ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
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マタイによる福音(マタイ5章1~12a節)
[そのとき、]イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、 身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の聖書の箇所は真福八端といわれる有名な箇所です。あまりにもよく知られた箇所ですが、最初に書かれたマルコ福音書に並行箇所はなく、イエスさまに由来しているとはいえ、マタイ共同体の教えを編集したものであると考えるのが一般的だと思います。マタイ福音書の特徴は、「あなたがたも聞いているとおり、○○と命じられている。しかし、わたしはあなたがたに言う」というように、イエスさまを新しい律法の制定者と描いていることにあります。しかし、イエスさまは律法を守る守らないということで、人を区別し差別するような当時のユダヤ教のあり方に異議申し立てをしていかれました。それゆえに律法の違反者として、十字架刑に送られてしまいます。それにも関わらず、イエスさまを新しい律法の制定者として描くことには違和感があります。ですから、マタイ共同体の固有の状況が強く影響していると考えるのが妥当でしょう。マタイ福音書の特徴の「あなたがたも聞いているとおり、○○と命じられている。しかし、わたしはあなたがたに言う」の言い方がされるのはほぼマタイだけです。
イエスさまの宣教の中心は神の国の告知であって、ユダヤ教の律法に対して新しい律法を制定したり、新しい道徳律を提示したりするような人間的な次元の話ではありません。イエスさまの言われた神の国というものは、人間の努力とか恣意によってどうこうする次元の話ではなく、本来的な神と人との関わり、宇宙や世界とわたしたちの関わり、人と人との関わりにわたしたちを目覚めさせるものであったと言えるでしょう。つまり、すでにわたしたちが生かされてあるところの世界の本質について、イエスさまは語られたのだということです。ですから、神の国は、イエスさまの弟子たちへの命令ですらありません。マタイもルカも省いていますが、マルコは神の国を成長する種として譬えています(4:26)。そこで、神の国は、「ひとりでに」「おのずから」成長していくいのちのダイナミズムとして描かれています。そして、イエスさまはご自分の存在をもって、神の国を体現されていかれます。
わたしたち人間の最大の勘違いは、この世界のすべてを人間が理解し、支配し、コントロールし、努力してやってきたと思い込んでいることです。しかし、この世界に自分で意識して生まれてきた人はいませんし、頑張って死んでいく人もいません。本来のいのちの世界は、「おのずから」なのです。それに最大限に抵抗して抗っている生命体が人間なのです。その抗いは文明の発展をもたらしたかもしれませんが、同時に多くの人々と動植物の犠牲の上に成り立ってきました。そこで、イエスさまはすべてのものの上に等しく昇る太陽や降り注ぐ雨として、神の国の働きを示されました。しかし、人間はそのことが理解できません。イエスさまとともに生活した弟子たちも、イエスさまが生きておられたとき、イエスさまのことを何も理解していませんでした。その様子が、福音書の中には赤裸々に描かれていきます。むしろイエスさまのことは、イエスさまが亡くなった後、復活したイエスさまと出会ったパウロなどによって、イエスさまの神の国の教えとして再構築されていったと言えばいいでしょう。今まで律法を守ることで自分たちは選ばれ、救われ、神によって嘉せられると何代にもわたって教え込まれてきたユダヤ人が、そう簡単にイエスさまの神の国の教えを受け入れられたとは思えません。その弟子たちを大きく変えた出来事が、復活したイエスさまとの出会いです。それは、イエスさまとの直接体験ともいえる出会いの体験でした。それが何であったかを説明することは簡単ではありません。そこで「聖霊」が働いておられるのですが、わたしたちの努力とか修行とは関係がない、まったく関係ないとは言いませんが、人間の行為の結果ではなく、本来の世界である神の国はそうであるということに気づく体験だったと言えるでしょう。
イエスさまの神の国のメッセージ自体は、人間の概念をまったく超えたものです。ですから、真福八端の箇所もこれを道徳やイエスさまの命令であると捉えてしまうと、何も分からなくなります。多くの場合は、努力して修行をして、心の貧しい人になれ、心の清い人になれ、平和を作り出す人になれ、そうすれば神の国に入れるのだと捉えようとします。あるいは、社会貢献して、現代社会を変革していくスローガンとして理解されがちです。マタイ福音書は概してそのように捉えられがちな書き方をするのですが、もちろんそれが大切なのはそうなのですが、神の国の本質はそうではないのです。一般的に、人間は自分が理解できない出来事や事象に直面するとき、そのことをそのまま受け取るのではなく、自分流に解釈しようとします。つまり、自分が納得できるように、物事を解釈し変換しようとします。それがときには、その本質の理解を深化させることにもなりますが、本質を歪曲させることも起こります。
ですから、神の国とは何ということを人間に分かりやすく適応させていくことは、当然リスクが伴うわけです。マタイの真福八端の中にはいろんなものが混在していますから、聞いて分かるものもあるし、分からないものもあります。心の貧しい人、悲しむ人、義のために迫害される人は幸いというのは分かならい。しかし、柔和な人、義に受け渇く人、憐れみ深い人、心に清い人、平和のために働く人は幸いというなら分かる。なぜなら、わたしたちはそのような人になることで神の国に入ることができる、あるいはそれは教会の使命だというように捉えると理解できるからです。しかし、イエスさまが言いたかったことは、努力して頑張ってそのような人になれとか、それは教会の使命であると言われたのではありません。そうではなく、神の国に目覚めた人、そのことを自覚した人はそのようになる、それが幸いであると言われたということなのです。ですから、復活されたイエスさまと直接体験をもった人たちは、神の国の真実に目覚め、福音書という時系列のイエス伝がなくても、生き生きとしたイエスさまとの関わりを保つことができ、人と人とがお互い繋がっていました。しかし、世代が下っていくに従って、神の国の直接体験が言語化され、概念化されていきます。このようにして、マタイ福音書はイエスさまが亡くなってほぼ半世紀後に書かれていくのです。そこでは、神の国の直接体験が伝わっていくのが非常に難しくなっていきます。弟子たちも、イエスさまの復活後、聖霊の介入と助けによって、はじめて神の国の現実に目覚めていきました。
ですから、大切なことは、真福八端を読むときにも、これをイエスさまの命令だとか理想として聞くのではなく、わたしたちを存在の根底において生かし、支えている世界としての神の国の真実として受け取っていくということです。わたしたちが頭で理解することが大切なのではなく、聖霊の促しによって、神の国を自分に引き寄せるのではなく、わたしたちが自分を投げ込んでいくというか、それを体感するということでしょう。そうすると、頭で考えて動くのではなく、体がひとりでにわずかですが動き出していきます。それこそが神の国が、場所とか制度とか掟ではなく、わたしたちを生かしているいのちの働き、営みであるということをわたしたちが体験することであり、神の国の意味がおのずからわたしたちに明らかにされていくのではないでしょうか。