information

教会からのお知らせ

年間第6主日の福音と勧めのことば

2023年02月12日 - サイト管理者

♰主の平和 

2月11日はルルドの聖母の祝日で、「世界病者の日」です。この日は、全世界の病気で苦しんでいる方に、ふさわしい援助の手がさしのべられるように祈るとともに、病気の人自身が、苦しみの意味をよく受け止めることができるように、奨められています。(女子パウロ会ラウダーテ参照)

ご病気の方々のために、心を合わせてお祈りします。

■2023年「第31回世界病者の日」教皇メッセージ

https://www.cbcj.catholic.jp/2023/01/24/26328/

■ライムンド 出水洋神学生 助祭叙階式のお知らせ

3月21日(火・祝)10時 河原町教会

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_f9661dc0670e46dfb3ecb842fdb5fe77.pdf

■「教区高校生会春の集い」のご案内

3月31日(金)14~17時 桃山教会

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_c881c4ab8bdc425e86abe9e24238aa90.pdf

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第6主日のミサ 

■今後のミサ予定 

2月

12日㊐ 第2週につきミサはありません

18日㊏ AC地区 年間第7主日のミサ   10:30

19日㊐ BD地区 年間第7主日のミサ   10:30

25日㊏ BD地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

26日㊐ AC地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

地区分け

A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外

B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター

C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺     

D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。

ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。

感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。

また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。

京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。

体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

************************************

福音朗読 マタイによる福音(マタイ5章17~37節)

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、 あなたがたは決して天の国に入ることができない。

あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。

 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。

『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。

 また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。

 天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

************************************

<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日、イエスさまは「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファイリサイ派の人々の義にまさっていなければ」といわれます。それでは、律法学者やファイリサイ派の人々の義とは一体どのようなものでしょうか。イエスさまの話は「あなたがたも聞いているとおり」で始まり、「しかし、わたしは言っておく」というスタイルになっています。それは、旧約の律法ではこのように教えているけれど、わたしはこういいますといういい方です。それで、今日の箇所を見ると「殺してはならない」「姦淫してはならない」「偽証してはならない」などという十戒の教えが説かれていきます。十戒の教えは、「目には目を、歯には歯を」でよく知られた同害報復法のハムラビ法典に影響を受けているといわれています。ハムラビ法典は、社会秩序と人間のいのちを守るために、為された行為に対して等価の償いを規定した古代の人間社会の法規です。ハムラビ法典等は、お互いが必要以上の復讐などに発展しないようにするための人間の知恵でもあったわけです。これが一般的な人間社会の正義であり、ユダヤの律法や十戒はその人間の正義をより宗教化し、神法化したものなのです。

しかし、ここでいわれている人間の正義は、どこまでいっても報復的正義、配分的正義であり、わたしたちの今の社会もその正義で成り立っているということができます。つまり、強者がのさばったり、弱者がやられっぱなしになったりしないようにバランスをとるということです。罪を犯したら罰を受ける、また反省する、罪につり合った償いを受けさせるという考え方です。その考え方は勧善懲悪、因果応報という考え方にもなり、多くの宗教がその倫理観にもとづいて教えを説いています。ですから、頑張れば報われる、努力すれば認められるが怠ければ報われない、という非常に単純な考え方等もその典型です。しかし、これはどこまでいっても、人間の頭、理性で考えた正義であって、これが律法学者、ファリサイ人の義であるということです。人間には非常に分かりやすいいし、誰もが受け入れやすい考え方、教えです。

しかし、イエスさまは「あなたがたの義がファイリサイ派の人々の義にまさっていなければ」といわれました。これは一見すると、イエスさまがもっと崇高な、超人的、超自然的な正義観、倫理観を弟子たちに求めておられるかのように聞こえます。「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」的な教えです。イエスさまは、わたしたちに律法学者やファイリサイ派の人々より立派な人になれといわれたのでしょうか。いいえ、イエスさまは、あなたがたは律法学者やファリサイ人より、さらに上の正義を目指しなさいといわれたのではないのです。わたしたち人間の考える正義とは、所詮は人間の頭で考えられる理屈で納得できるような正義なのですが、神の国の正義、イエスさまがいわれる義とは、人間の側からのすべての理由や意味づけなど、まったく及ばないものだということなのです。どういうことでしょう。

パウロはローマの教会の手紙のなかで次のように書いています。「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました(ロマ5:20)」。パウロは人間の考えでは、罪が増し加われば、それなりに罰も償いも重くなる。しかし恵みの世界では、罪が増し加われば、神の恵みはなおいっそう満ちあふれるのだといいます。これが、神の国の正義なのです。わたしたちは何度となく、このパウロのことばを聞いているかもしれません。しかし、いくら聞いていても、どうしても人間の正義、理屈と合いません。わたしたちは、頑張ればそれなりに認められたいし、悪いことをした人は罰を受けて当然だと思っています。自分の嫌いな、また自分や自分の大切な人を害する人が罰せられることもなく、救わるなどということは、わたしたちは到底受け入れられないのです。また、神さまがいらっしゃるのに、どうしてこんなに悪い酷いことが起こるのかと考えてしまいます。しかし、イエスさまの考え方、神の国の正義は、わたしたちの考えとまったく違っているのです。神の国の正義は永遠の絶対平等性であり、わたしたちはそれを愛と呼んでいます。それは、頑張ったものは報われて、悪いことをした人は罰せられるというようなことがまったく関係ない世界なのです。わたしたちは、やはり頑張った人はほめられて、悪い人は自業自得だと思いたい、その考え方がまったく通用しないのが、イエスさまの正義なのです。だからわたしたちの頭で理解できるはずがありません。

神のみことばは、人間の理屈や皆が納得する話しではないのです。よく、今日のお話はよかったという人がいますが、それは自分が聞いて理解できて、都合がよくて納得したという意味であって、必ずしもイエスさまのことばを聞いているわけではありません。あるいは、お話があんまりにも勧善懲悪的な考え方に偏っていたか、努力して辛抱して頑張りましょう、それがキリスト者の生き方ですよというような表面的な話だったからではないでしょうか。むしろ、今日のお話は難しかったという方がいいのです。もし、よくわかったというのであれば、それは人間界での話であったということなのです。

そもそも神のことばは、人間の理屈が通用しない世界のことを、人間のことばを通して伝えているものです。説教や勧めのことばも、人間のことばを通して、如何なる人間の理屈も通用しない神の世界の真実を伝えるものでしかないのです。だからお話を聞くときに、ことばや理屈だけを聞いているとしたら、それでは神のことばを聞いたことにはなりません。人間のことばとして現れてくださったイエスさまのことばを聞くことが、本当に聞くということです。自分たちに心地よい納得するいいお話を聞いているだけならだめなんです。まして、そのような話し方をするのはもっとだめなのです。

ですから律法学者やファイリサイ派の人々にまさった義というのは、彼らの正義の捉え方の延長線上にあるより立派な正義ではなくて、人間の正義という物差しをまったく超えた義、まったく人間の理由や理屈が通用しない神さまの正義のことなのです。わたしは、なぜイエスさまから愛されているのかを考えてみてください。それは、わたしがイエスさまの愛にふさわしいからではありません。わたしがふさわしいから、愛してもらうと考えるなら人間の正義の捉え方です。イエスさまが愛するとき、与えるとき、ゆるすとき、理由などないのです。それはあたかも水か高いところから低いところに流れるように、ただ愛はそういうものだということなのです。わたしたちは、たとえこの世でどれだけ修行を積んで立派な人間になったところで、宇宙の中では西も東もわからない赤ん坊のようなものです。自分の生死という一大事を前にしたら、わたしたちはみんな赤ん坊です。わたしが生きている理由も死んでいく理由もありません。ただ生きていく、そして死んでいく。理由などありません。生きるということは、自分で考えてどうこうなることではないのです。

本当のいのちの世界は、わたしたちが考える自分と他人の区別がなくなった世界、生と死がなくなった世界です。ですから神の国は、そのようないろいろな区別、隔てがなくなった透明な世界のことを指しています。イエスさまはそのことを、真の義といわれました。自他、生死のある世界は、やはり暗い苦しみの世界でしかありません。自分さえよかったらいいとか、他人のことは知らないとか、いつまでも生きたいとか、そうすると自分が病気になったり、老いたり、死ぬことは悪になります。これは苦しみの世界です。それが人間の考える正義、理屈なのです。しかし、わたしたちはもっと大きないのちそのものに生かされているのです。にもかかわらず、わたしたちは人間の正義という小さな枠組みの中に閉じこもっていることに気づかないでいるのです。人間の正義が全く通用しない大きな正義、愛といってもいい、そのような大きないのちが、この小さなわたしを生かしているのです。それが神さまの義、神の国なのです。

お知らせに戻る

ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。