年間第7主日の福音と勧めのことば
2023年02月19日 - サイト管理者♰主の平和
22日は灰の水曜日で、いよいよ四旬節が始まります。
■カリタスジャパンは「トルコ南東部地震救援」募金の受付を開始しました。高野教会でもミサの際に募金箱を置きます。お寄せいただいた募金はカリタスジャパンを通して被災地域で行われる救援活動のために活用されます。個人でも直接募金ができます。カリタスジャパンのウェブサイトをご覧ください。
https://www.caritas.jp/2023/02/10/6084/
■「毎日のミサ」の冊子の年間購読につきまして
継続して購読の方も、新規に購読の方も、2月末日までにお申し込みください。年間購読料は4600円です。
■黙想会のご案内
日時:3月9日㊍14:00~17:00 場所:望洋庵(西陣教会内)
講師:阿部仲麻呂神父様(サレジオ会) テーマ:「キリストとともに」
対象:洛北ブロックの信徒どなたでも 申込締切日:2月28日(望洋庵まで)
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■年間第7主日のミサ
■今後のミサ予定
2月
19日㊐ BD地区 年間第7主日のミサ 10:30
25日㊏ BD地区 四旬節第1主日のミサ 10:30
26日㊐ AC地区 四旬節第1主日のミサ 10:30
3月5日㊐より全地区合同のミサに戻りますので、ミサは日曜日10時半の1回だけになります。土曜日のミサはなくなります。
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福音朗読 マタイによる福音(マタイ5章38~48節)
[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。
あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はイエスさまの宣教される神の国の内実が説かれていきます。イエスさまが弟子たちに、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」といわれた義の内容でもあります。今日、イエスさまは弟子たちに、一見不可能と思われる行動を求められます。「右の頬を打つものには、左の頬を向け」「下着を取るものには、上着を与え」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」といわれます。キリスト教の中では、これこそが敵への愛であると教え、そのような英雄的な愛を実行した人を聖人としてあがめて、そのような愛を実践することを理想としてきました。確かに、それは立派なことなのですが、これをキリスト教の根本的な教えとして教え、その生き方を推奨するならば、キリスト教は一部の人たちの教えとなってしまいます。それなら、律法を必死で守って実行しようとした律法学者やファリサイ派の人々の義を推し進めた、エリート集団のための教えになってしまうのではないでしょうか。確かに、そのように生きることができる人たちもいるでしょう。コルベ神父やマザーテレサなどはそうなのでしょうが、これがキリスト者の模範で、このように生きるように教えるのがキリスト教なら、すべての人が生きられるでしょうか。キリスト教は、すべての人のためのものであるはずです。
このマタイ5章は、最初に書かれたマルコ福音にはほとんど並行箇所がありません。つまり、どちらかといえば、この箇所はマタイの教会の教えであるといっていいのではないかと思います。マタイ福音書は、おもにユダヤ教からキリスト者に改宗した人々に対して、旧約聖書をふんだんに引用して、わかりやすくイエスさまの福音を説こうとしたものです。しかし、問題点もあります。イエスさまの神の国の福音を正しく理解することができなかった人たちが、イエスさまの福音をユダヤ化、律法化したという問題があるということです。このような律法主義的な傾向に対して、パウロは生涯戦っています。
マタイ福音書での書き方では、「あなたがたは、隣人を愛し、敵を憎めと律法では教えられてきた」しかし「わたしはいっておく。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」というように、最初にイエスさまの命令、要求が来ます。そして、その目的、理由が描かれます。それは「あなたがたの天の父の子となるためである」と。そして、その根拠として、天の父の完全性「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と続きます。これを読んだ多くの人は、あなたがたは頑張って善い人になりなさい。そうすれば天の父の子にしてもらえて、救われるんですよと読んでしまいます。これだけなら、律法を一生懸命守って、神さまに嘉せられると考えた律法学者やファリサイ派の人々と何ら変わりません。敵への愛、犠牲的な愛を実践したイエスさまによって、正義のハードルが高くなったとしか理解できません。たぶん、教会もそのように教えてきたでしょうし、それを実践した人を聖人に列聖し、キリスト者の模範であるといってきたように思います。それはそうかもしれませんが、イエスさまがここで話しかけておられる人々は、本当に貧しい人、小さくされた人、今日一日の生活の糧にもこと欠く人、治ることのない病を負った病人たちです。イエスさまの話を聞くために集まってきた彼らに、イエスさまがそんなことを要求されとは思えません。しんどいときには、そんなこといわれても誰もできないのです。本当にしんどいとき、頑張りなさいとか、祈りなさいといわれても、祈ることさえできないのです。イエスさまの神の国の福音は、よい知らせなのですから、人々にとって喜びであったはずです。犠牲的な英雄的な愛を命令して、それを実践して喜べというのでは、無理があります。
最初に書かれたマルコ福音書を見ていくと、イエスさまは病人や悪霊に憑かれた人を癒し、貧しさに喘ぎ苦しむ人々を心にかけ、どれだけ教えても理解しようとしない無理解な弟子たちにどこまでも寄り添っていかれました。イエスさまが説かれた神の国というものは、イディオロギーとか、新しい倫理観、まして新しい律法ではなく、神さまと人間、世界、宇宙との本来の関わり、真実の姿です。それが、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」ということばにはっきりと現されています。
イエスさまが来られたのは、「貧しい人に福音を、捕らわれ人に解放を告げるため」であって、ユダヤ教に代わる新しいキリスト教という宗教を教えるために来られたのではありません。イエスさまが告げ知らされたのは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」、何ものをも区別、差別しない絶対平等の真理である真実の世界、神の国の働きによって、わたしたちは生かされているということなのです。だから、わたしたちは皆等しく神の子等であり、あなたがたは兄弟姉妹です。それなのに、なぜ争い、憎みあい、殺し合うのか。自分たちのありのままの姿を見なさいということだったと思います。ですから、順番がまったく違うのです。わたしが頑張って、善行をして、神の子になって、神の国に入るのではなく、あなたがたは同じ大きないのちで生かされている子等、兄弟姉妹である。その本来のいのちのあり方が神の国といわれて、神の国がわたしたちを生かし、働いている。わたしが主語で神の方に行くのではなく、神が主語でわたしの方に来られるのです。わたしたちが神の国へ入るのではなく、神の国がわたしたちを包み込んでいる、包み込んでいくということなのです。ですから、わたしたちはどれだけ頑張って、反対のことをやってもうまくはずがありません。それは人間の自力だからです。
イエスさまの神の国の福音を理解できない人たちが、人間が考えた正義でもって、善いことをして頑張って徳を積んで、神さまと駆け引きをしているだけであって、これではイエスさまの福音を何も理解したことになりません。そのこと知らせるために、イエスさまはこの世界に来られたとき、もっとも貧しいもの、もっとも弱いもの、もっとも蔑まれたもののところへ行って寄り添われました。しかも、ただ行って寄り添うだけではなく、自らがその身になってしまわれました。自らがもっとも貧しいもの、弱いもの、愚かなもの、救われ難いもの、呪われたもの、最後のものとなって神の国の真実を証していかれたのです。それがイエスさまの生涯、そして十字架です。
この神の国の働きにわたしたちが己の身を委ねること、これを信仰というのです。しかし、わたしたちが己の身を委ねるのではありません。わたしが己の身を委ねることができるのは、わたしたちに神の国の力が働いているからなのです。わたしの力によるのではありません。これが神の国というものであり、イエスさまがわたしたちに告げ知らせた福音、よい知らせなのです。そして、イエスさまがそのような福音を告げ知らせないではおられなかったのは、イエスさまご自身が神の国の真実に触れ、またイエスさまご自身が神の国の真実そのものであり、その真実は愛であり喜びでしかなかったからなのです。
わたしたちは、今日の福音を本当に正しく聞いていかなければならないと思います。決して、自分のわかるように捉えてはならないのです。イエスさまのわたしへの大いなる働きとして捉えなければならないのです。