四旬節第1主日の福音と勧めのことば
2023年02月26日 - サイト管理者♰主の平和
四旬節に入りました。
豊かなみことばに養われながら、心豊かな四旬節となりますように。
トルコ・シリアの被災地のため、またウクライナのために祈りつつ。
■2023年四旬節教皇メッセージ「四旬節の禁欲と、シノドスの歩み」
https://www.cbcj.catholic.jp/2023/02/24/26555/
■京都教区時報3月号
教区のHPにも掲載されています。冊子は聖堂後ろに置いてあります。https://kyoto.catholic.jp/jihou/544.pdf
■故・村上神父さまの動画公開のお知らせ
昨年度の京都教区聖書講座の動画が公開されています。
■「トルコ南東部地震救援」
募金箱をミサの時に聖堂に置きます。お寄せいただいた募金はカリタスジャパンを通して被災地域で行われる救援活動のために活用されます。
■「毎日のミサ」の冊子の年間購読
継続して購読の方も新規に購読の方も2月末日までにお申し込みください。年間購読料は4600円です。
■黙想会のご案内(先週のメールにチラシ添付)
日時:3月9日㊍14:00~17:00
場所:望洋庵(西陣教会内)
講師:阿部仲麻呂神父様(サレジオ会)
テーマ:「キリストとともに」
対象:洛北ブロックの信徒どなたでも(要申込)
申込締切日:2月28日(望洋庵まで)
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■四旬節第1主日のミサ
■今後のミサ予定
地区別ミサは、今週が最後です。3月5日㊐より全地区合同のミサに戻りますので、ミサは日曜日10時半の1回だけになります。土曜日のミサはなくなります。今までと同様、第2日曜日のミサはありません。
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マタイによる福音(マタイ4章1~11節)
[そのとき、]イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
四旬節に入りました。今日読まれる箇所は、ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスさまが、霊に導かれて、荒野に滞在される出来事が語られていきます。荒れ野というと、わたしたちはいろいろなイメージをもつと思いますが、日本で荒れ野というと、荒れ果てた土地のことや休耕田などを考えるかもしれません。しかし、イスラエル地方での荒れ野は、まったくいのちを寄せ付けない、人が一度迷い込んでしまうといのちさえ危機に晒され、死と向き合わなければならなくなるような不毛の土地をさしています。そのような荒れ野は、わたしがわたしであると思っているような些末なこと、こだわり、大切にしていること、社会的な地位・役割、家族的な役割、宗教などもすべて役に立たなくなる世界です。
わたしたちは通常、社会の中で生きているとき、わたしがわたしであるということを、他者との関わりの中で認識して生きています。親であるとか、子であるとか、夫婦、兄弟姉妹といった血縁関係とか、会社では上司・部下、同僚とか、地域ではお隣さんとか、学校では教師・生徒とか、教会では信徒・司祭、司教とか、役員・部代表とか、また性別とか、出身地とか、などです。つまり、わたしたちは自分の住民票に書いてあったり、免許書やパスポートに書いてあったり、名刺に書いてある役職や名前が自分であると思って生きています。しかし、荒れ野というところは、そのような自分、つまり自分が自分だと思っていることが何も通用しなくなるところなのです。通常、わたしたちは、立場だとか、役割だとか、身分だとか、名前だとかが自分であると思って生きています。しかし、それが通用しないところが荒れ野です。イエスさまが、霊によって導かれていかれたところは、そのような場なのです。ですから、そこではイエスさまも神の子であるということが通用しません。
そこで悪魔は「あなたが神の子ならば…」といって誘惑してくるのです。悪魔というと悪いものというイメージがあるかもしれませんが、その本質は「誘惑するもの」です。つまり、わたしたちが自分のことを何ものかと思っている、そのところを突いてくるものだといえるでしょう。荒れ野での滞在を、悪魔の試練のように思われていますが、そうではなく、わたしは一体何ものかが問われる場であるといったらいいでしょう。それが荒れ野なのです。あなたは自分のことを、○○だと思っているかもしれないけれど、それは本当にそうですかということが問われているといえばいいでしょう。この○○には、わたしたちのありとあらゆる、立場、役職、身分、性別、名前などが当てはまります。
今日の第1朗読では、創世記から人間の創造が描かれています(創世記2章)。そこで、神さまは人間を土の塵で形作って、その鼻にいのちの息を吹き込まれたと描かれています。まったく寓意的な話であると思われるかもしれませんが、あながち作り話でもないのです。この地球のありとあらゆるものを構成する要素は、酸素、ケイ素、鉄、アルミニウム、リン、カルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウム、水素などであり、それはさらに細かい素粒子、クオークによって作られています。その最小の構成要素のその時々の集合体のひとつが人間であり、わたしなのです。ですから、わたしがわたしだと思っているようなもの、意識というようなものは、わたしが誕生してから出来たものに過ぎません。わたしが誕生する前に世界はすでにあったのです。
考えてみると、わたしが生まれたときに、わたしなどという意識はありませんし、わたし自身の始まりなどわたしではわかりません。少なくとも親は知っていたかもしれませんが、わたしは何もわかりません。だれも、「俺は、今生まれるんだ」などと確信して生まれてくるということはないのです。すでに、わたしより先なるものがあったということです。そして、わたしより先にあったものに、わたしという自意識ができてきたわけです。わたしが意識したときにわたしが始まったのではなくて、わたしの意識より、先にあるものがあるのです。人間は、意識が生じた瞬間にわたしの意識より先にあったものを、わたしの意識下にあるようにしていく、つまり、自分がそれを支配しているように思うのですが、自意識を超えたものが、絶えずわたしの根底にあるということなのです。それを錯覚して、わたしの意識の世界がすべてだと思い、それを自分の力の統制下におこうとします。これが、自分本位の世界、自己中心性を形作っていくのです。
それに対して創世記は、わたしを形作っているものは、わたしの中にあり、またわたしの外にもある土の泥(素粒子、クオーク)であって、それをわたしはわたしであるといっているだけにすぎないのだといいます。わたしの自意識の根底には、少しも変わることがないわたしを超えたものがあり、それが土の塵の集合体に吹き込まれたいのちの息であり、わたしたちはわかってもわからなくてもそのいのちがわたしを支えているのだといいます。わたしたちがするべきことは、そのいのちに己をまかせることです。それがなかなかわからないで、そのいのちの中で迷い、善悪を決めて、区別したり、幸不幸を作り出したりしているのです。わたしたちはいのちに抱かれているのにも関わらず、そのいのちに抗い、暴れまわっているのです。
四旬節は、霊がわたしたちを荒れ野へといざなう恵みのときです。そこでは、わたしがわたしであると思い込んでいるものが解体されていきます。そうすると、今までわたしだと思い込んでいたわたし、わたしたちのありとあらゆる立場、役職、身分、性別、名前が解体されていきます。そして、そこにある根源的いのちと出会うこと、これが宗教です。わたしがわたしのことをわかって、イエスさまと出会うのではありません。自分が解体されることで、わたしたちはイエスさまと出会うのであり、そのときわたしは根源的にわたし自身に出会うことになるのです。この四旬節、わたしたちは霊の導きに従って歩めるように祈りましょう。