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教会からのお知らせ

四旬節第2主日の福音と勧めのことば

2023年03月05日 - サイト管理者

♰主の平和 

いよいよ今月からミサが1回になります。地区別ミサが3年にわたって行われたので、お会いできなかった方々もたくさんおられます。みなで一緒にミサを祝う喜びをかみしめたいと思います。1つの共同体として、支え合いながら歩めますように。

■京都教区の出水洋神学生の助祭叙階式が、3月21日㊋㊗、河原町教会で行われます。当日のご出席や、引き続きのお祈り、ご支援をお願いします。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_f9661dc0670e46dfb3ecb842fdb5fe77.pdf

■京都教区中学生会春の集いの案内が届いています。中学生の皆さんにお知らせください。

3月30日㊍13:30 唐崎メリノールハウスにて

詳細は教会の掲示版、または教区のホームページでご確認ください。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_9720c0f5363d43cb96ac6d09081c5c03.pdf

■心のともしび運動に生涯をささげられたマクドナル神父様の一年祭ミサが、3月30日㊍に河原町教会で行われます。詳細は掲示板をごらんください。

■「トルコ南東部地震救援」

募金箱をミサの時に聖堂に置きます。お寄せいただいた募金はカリタスジャパンを通して被災地域で行われる救援活動のために活用されます。

■今後のミサ予定

明日、3月5日㊐より全地区合同のミサに戻ります。ミサは日曜日10時半の1回だけになります。土曜日のミサはなくなります。今までと同様、第2日曜日のミサはありません。

ミサの受付は10時から始めます。早く到着された方は、聖堂内でお待ちください。ミサに来られる際は、引き続き感染防止対策をお願いします。しばらく受付での記名も続けます。

■3月5日からのミサ朗読当番表を作成し、このメールに添付しました。当番に当たっておられる方はご確認の上、各自でプリントアウトしていただきますようお願いします。作業の効率化と用紙削減にご協力ください。印刷物が必要な方は、典礼部(または役員)までお声掛けください。

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■四旬節第2主日のミサ 

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福音朗読 マタイによる福音(マタイ17章1~9節)

[そのとき、]イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、イエスさまがガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、ユダヤ教の本山であるエルサレムに向かおうとされる途上での出来事です。主の変容といわれる箇所です。そこでは、イエスさまの栄光が現されると同時に、弟子たちの不信仰ということもあらわにされていく箇所です。山の上で、弟子たちは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という呼びかけを耳にします。これはイエスさまが洗礼を受けられたときに、イエスさまが内的に呼びかけを聞かれたことばでもあります。

長い教会の歴史の中で、イエスさまはいつから神の子であるかということが議論されてきました。ある人たちは、洗礼のときからだとか、変容のときからだとか、死と復活を通して神の子になられたのだとかいうような議論がなされてきました。もちろんわたしたちは、イエスさまが生まれながらにして、神の子であることを知っています。このことはよく考えれば、人間の場合も同じです。人間は生まれたときにはじめて、誰かの子となるのではありません。子であるということは、難しい言葉でいうと関係概念であって、親があってはじめて子ということばが生まれてきます。わたしたち人間では親にならない人たちというのはありますが、わたしたちは必ず誰かの子です。子であるということは必ず親がいるということになります。子になるということは、生まれたときになるのでも、はじめてお父さん、お母さんの名前を呼んだときになるのでもありません。まして、わたしが子であると意識したときに子になるのではありません。わたしたちは皆、生まれながらにして子として生まれてくるのです。ということは、わたしたちは誰もが子である、つまり生み出されるもの、生かされているものであるということになります。そのことにあるときにはっと気づく、子どもがお母さんの名前を呼んだりするとき、またもっと根源的ないのちの呼ばれていることを意識したときに、自分が子であることに気づくのです。

それでは、その気づきはどのように与えられてくるのでしょうか。わたしたちは自分の力で、子であることに気づくことはできません。お母さんが絶えずわたしを呼び続けているという事実がまず先にあって、わたしはその呼びかけに応えるということによって、その気づきが起こるのです。わたしたちの親子という関係は、わたしたちがイエスさまを通して、根本的な大きないのちによって呼びかけられていることに気づくための予行練習のようなものです。だから、この地上の親子関係はすべてではないのです。つまり、わたしたちが子であるということは、単に人間としての両親がいるということではなく、あなたがたには、あなたがたを生み出し、いのちを与えて、支え続けている真の親がいる、その真の親に自分をまかせなさいといわれているのです。人間の両親は、たまたまその子を預かっただけにすぎないのです。それなのに、子を自分の所有物のように勘違いしている親が何と多いことか、それが現代社会の問題でもあるのです。

ですから、わたしたち人類は皆、生まれながらにして神の子なのです。洗礼によって神の子になるのではありません。子であるということは、生かされているものであるという意味なのです。わたしたちが子であるということは、絶えまなく大いなるいのちで生かされ、はからわれているからに他なりません。わたしが努力して、頑張って子の身分を獲得したのではないのです。子であるということは、すでに永遠において与えられているものなのだということなのです。イエスさまが神の子であるということの意味は、神さまである方が人間となることで、人間の本質を人間に教えてくださった、人間の真実、人間のいのちの根源、人間の歩むべき道をしめしてくださったのです。ですから、イエスさまは「道、真理、いのち」と呼ばれます。イエスさまは人間になって、生まれるものとなって、人間の苦しみ、悩み、迷い、罪となって、わたしの人生となってくださったのだということなのです。

今日の変容の箇所で「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」といわれるのは、イエスさまを通して、わたしたちには神さまが呼びかけている、呼びかけが届いているということなのです。イエスさまを通してわたしに呼びかけが届いていることを確認して、信じるのではありません。イエスさまの呼びかけが届いていることが、真実、信仰なのです。その真実にふれたものは、イエスさまの真実とひとつになります。だから、もはやわたしが信じるのではなく、キリストがわたしのなかで信じるのだといえるでしょう。どうしたら信じられるか、どうしたら呼びかけに応えられるかではなく、何処までもイエスさまから逃げようとする、この逃げるわたしを追いかけてきて決して離さないというイエスさまの真実があり、わたしたちはそのことを知らされる、気づかされるということなのです。もったいないかもしれませんが、真の信仰をいただくと、イエスさまとわたしはひとつです。わたしがどこへ行こうとも、どこに隠れようとも、イエスさまはついて来られます。パウロはそのことを「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラ2:20)」といいました。この気づきがないなら、洗礼を受けようと、何度ミサに参加しようと、何度聖体を頂こうとも、わたしたちはイエスさまがわからないままです。何と無駄なキリスト者の人生を過ごしていることでしょうか。わたしたちは、頑張って努力して神の子になるのではありません。まして、洗礼を受けた人だけが神の子になるのでもありません。わたしたちは神の子であることに気づかされたから、洗礼を受けたのにすぎないのです。そこを決して勘違いをしてはならないのです。

実に、今日の第2朗読でいわれているとおりです。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです(Ⅱテモテ1:9,10)」。イエスさまによってすでに明らかにされた真実、生かされているという真実が先にあるのです。わたしたちはそのことに気づかせていただくことがすべてなのです。そして、その真実のことばは、生きとし生けるものを通して、わたしたちに届いているのです。その真実のことばを、わたしたちは聞かなければならないのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。