四旬節第4主日の福音と勧めのことば
2023年03月19日 - サイト管理者♰主の平和
四旬節も半ばを過ぎました。京都も例年より早い桜の開花宣言が出されましたが、気温の変化の大きい日が続いています。どうぞ体調を崩したりなさらないよう、お気をつけてお過ごしください。
■今後のミサ予定
3月より全地区合同のミサに戻りました。ミサは日曜日10時半の1回だけです。
毎月、第2日曜日のミサはありませんが、4月9日は復活祭で第2日曜日ですが、復活祭のミサは行われます。また、4月7日聖金曜日は、午後3時より主の受難の典礼が行われます。聖木曜日の主の晩さんと復活徹夜祭の典礼は行われません。
ミサの受付は10時から始めます。早く到着された方は、聖堂内でお待ちください。ミサに来られる際は、引き続き感染防止対策をお願いします。
■新型コロナウイルス感染症についての京都教区の措置(その12)
高野教会での今後の対策方法は、後日お知らせします。
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_de833e6299234cd382fc9c0925e33868.pdf
■京都教区の出水洋神学生の助祭叙階式が、3月21日㊋㊗、河原町教会で行われます。当日のご出席やお祈りをお願いします。
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_f9661dc0670e46dfb3ecb842fdb5fe77.pdf
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■四旬節第4主日のミサ
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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ9章1~41節)
[そのとき、]イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、生まれつき目の見えない人の癒しの物語です。ここでは、目の見えない人の癒しというより、真の闇とは何かということが取り上げられています。わたしたちは闇というと、光がない状態、暗くて見えないことだと思っています。今日の福音の中のファリサイ人の反応は、本当の闇とは何かを知ることの手掛かりになります。彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」といい、省かれた箇所の中では「それでは、我々も見えないということか」とイエスさまに敵意をぶつけてきます。ファリサイ人の主張することは、自分たちは見えている、分かっている、自分のことは自分で何とかできる、助けられると思っているということです。わたしたちも、自分で頑張って努力して、キャリアを積んで、立派な人間になっていくことがよいことだと教えられてきました。特に日本人は真面目ですから、真面目がいいと思っています。ですから、洗礼を受けて、真面目に教会のミサに通って、教会でお話を聞いて活動して、それで救われると思っています。実際、わたしたちは自分の生活の中で次々といろんな問題が起こってきます。そのことをわたしが信仰することで、何とかしようとしているわけです。ある意味で当たり前のことで、わたしたちは人任せにせず、自分で懸命に生きており、自分の信心や自分の努力、真面目さで、苦しみや悩みを超えていけると思っているわけです。しかし、わたしたちは、このような考え方がどれほど危ういものであるかは考えたこともないのです。
自分が病気にかかっていることに気がつけば、治療を受け、薬を求めるということもできるでしょう。しかし、病にかかっていながら自分は病でないと思っているなら、治療を受けることはしません。わたしたちの本当の愚かさというものは、自分は真面目にやっている、信仰しているつもりになっている、しかし自分のあり方がずれている、その自分の愚かを知らない愚かさなのです。一応謙遜しますが、自分を愚かであるとは少しも思っていない、だから自分が迷っていることさえ気づかない愚かさなのです。むしろ、自分は信仰深くて、自分こそが教えることができる、人を指導することができると思っています。こうなると病膏肓に入るで、ほぼ治療不可能な重病だということではないでしょうか。わたしたちはこのような深い深い闇を抱えているのです。特に宗教をやっている人たちは、気をつけないと気づかないうちにこの重病にかかっています。そのような人たちは、真面目に信仰して、努力していれば何とかなると思っているのです。そして、人生をそのようにやっていくわけです。祈れば何とかなる、真面目に信仰していたら何とかなる、神さまが助けてくださる、そして自分こそ天国に行ける人間だと思っているわけです。そして信心ぶっている、これこそが愚痴、無明というわたしたちの真の愚かさ、真の闇なのです。そして、わたしが闇の中にいることさえわからないほどの暗さ、愚かさなのです。
それでは、わたしたちはどのようにこの己の闇に気づいていくことができるのかというと、イエスさまからの呼びかけを聞くことを通してであるといえます。闇ということばは、門に音と書きます。闇は、すべてに対して門戸を閉ざしていること、自分の思い、自分のはからいの中に閉じこもっていることであるといえます。わたしたちのあり様というものは、光に包まれているのにも関わらず、目を瞑っている状況なのです。光がない、イエスさまがおられないのではなく、光であるイエスさまに対して門を閉ざしているので闇となっているということなのです。目を閉ざしているので光は入ってきませんが、音は入ってきます。そこに「シロアムの池に行って洗いなさい」というイエスさまの声が聞こえてきます。それで、その人が行って洗うと、目が見えるようになりました。イエスさまの声を聞いて、声に従って目を洗うと、わたしがこの光に満ちた世界に対して目を瞑って拒絶していたこと、光の世界にいたことに気づかされるのです。イエスさまは何も区別しておられないのに、わたしが自分で努力して頑張って、信仰して上に行こう、救われるものになろうとしていた、しかし、何のことはない、イエスさまはわたしとともにおられたのだという驚きが、救いということなのです。わたしたちは光の世界にいながら眠っているようなものであるといえるかもしれません。見る目もない、聞く耳もない、そのように眠っている人をどのようにして呼び起こすのかというと、その人の名前を呼ぶことではないでしょうか。人間は意識不明に陥っても耳は聞こえているといいます。人の魂の耳は開いているのです。イエスさまは、死んだも同然のわたしの名を呼び続けておられるのです。
ヨハネ福音書の中で、マリア・マグダレナがお墓の中に死んだイエスさまを探していたのに、復活されたイエスさまはマリアの後ろに立っておられたのと同じです。イエスさまがおられないのではなく、マリアがイエスさまに背を向けて逃げていたのです。暗いのはわたしが目を瞑っているからであって、世間のせいでも、誰かのせいでもなく、わたしのあり方の問題なのです。そのわたしのあり様に気がつかないことを愚かというのです。そして、そのマリアにイエスさまは「マリア」と呼びかけられ、はっと気がつく。わたしたちの愚かさというのは、自分の闇を自分でつくりだして、光の世界に背を向けていることです。しかしながら、イエスさまは、その闇を愛おしんで、目を瞑り続けている、光の世界から逃げ続けているわたしを呼び続けてくださっているのです。そして、はっと気づく、闇が破られ光が射すということが起こります。それがイエスさまの声が届いたということなのです。回心といってもいいでしょう。
しかし、それによって愚かな自分がなくなるということではありません。闇も愚かさもなくなりません。夜が明けたわけではなく、夜明けが来ることが分るということだといえばいいかも知れません。わたしの心がきれいになったり、問題が解決したり、悩みがなくなるのではないのです。自分の心を何とかしようとすることで、救われるのではないのです。救われたいと思う前に、すでに救いはあったのだということ、どんなに状況が過酷であったとしても、わたしを呼びかけておられる方がある、わたしを救い取って捨てないといわれる方があることが我が身に知らされること、これが真の信仰といわれるものです。わたしがわたしの心をどうこうする、わたしの心がどうこうなることではないのです。わたしの心を見ればそこには自分の都合と欲、己のはからいしかありません。わたしの心がどうこうなること、救われたといって心が平和になったり、ありがたい気持ちになったりすることと救いは何の関係もありません。わたしたちのうちにいかにも信者ぶったところがあるなら、それは自分がこしらえた信仰に過ぎません。だから、そのような心は決して長続きしません。そうではなく、わたしを抱き取って決して離さないといわれるイエスさまの心を知らされること、そのイエスさまの思い、働きがわたしに届くことが真の信仰なのです。その信仰は与えられたものであって、わたしたちが作り出せるものではありません。