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教会からのお知らせ

復活の主日の福音と勧めのことば

2023年04月09日 - サイト管理者

♰主の平和 

主の復活のお喜びを申し上げます。皆で迎える復活祭です。聖歌も歌えるようになり、4年ぶりの復活の続唱です。

キリストを信じるすべての者よ 主の過越をたたえよう(中略)
私の希望 キリストは復活し ガリレアに行き待っておられる
ともにたたえ告げ知らせよう 主キリストは復活された
勝利の王キリストよ いつくしみをわたしたちに アーメン アレルヤ

復活されたイエスさまの祝福が、このホームページを見てくださった方々の上に豊かにありますように。

■今後の予定 

高野教会のミサは、第1、第3、第4日曜日10:30からです。第2、第5日曜日は、ミサも集会祭儀も行われませんので、4月30日(日)、5月14日(日)のミサはありません。

■2023年度京都司教区オンライン聖書講座が5月から開講になります。11月までの全12回で受講料は4,000円です。申込者限定配信で、3か月間いつでも何度でも聞くことができます。どうぞお申込みください。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_a1aa1577120b4e00821c1637d06cef17.pdf

■車で教会にお越しの方は、駐車許可証をフロントガラスに置いてください。

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ20章1節~9節)

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日、わたしたちは主の復活をお祝いします。主の復活の意味を理解するためには、聖木曜日から記念さわれてきた主の晩さん、主の受難、主のご死去、そして主の復活の全体を理解していく必要があります。主の復活はイエスさまが死者の中から蘇られたことを祝いますが、それは単なる死人の蘇生ではなく、イエスさまの奇跡でもありません。イエスさまの復活については、いろいろ想像されたような絵画やイメージが流布しており、それが間違った復活理解や勘違いを作り出しています。イエスさまの復活を正しく理解することは、わたしたちの信仰を見直すこと、またわたしたちの救い意味を正しく問い直すことでもあります。今日は、そのことを少し見てみましょう。

 わたしが小学生のとき、お寺の日曜学校で聞いた話です。ある国の慈悲深い王子は、森で飢えて動けなくなった母虎と子虎に会いました。王子は母虎に自分の体を食べさせて、母虎が子虎たちにお乳をやれるようにと決心します。しかし、王子は目の前に体を差し出しても食べる元気もない母虎を見て、崖から身を投げて流れた血を母虎に飲ませます。その血を飲んだ母虎は気力を取り戻して、王子の体を食べて子虎にお乳をやることができという話です。そして、この王子は生まれ変わって釈迦となって悟りをひらいたという話です。それが法隆寺の宝物の玉虫厨子の側面に描かれている「捨身飼虎(しゃしんしこ)」というお釈迦さまの前世譚の物語です。わたしはその話にとても心動かされたことを思い出します。現代人なら、そんなことをすれば血の味を覚えた虎がまた人を襲うのではないかとか、いろいろな反論をすることであろうと思います。しかし、これは真実の世界を描いたひとつのたとえ話です。

 わたしたちが聖木曜日の主の晩さんのミサで祝ったイエスさまの聖体の制定は、この話そのものであるといえるでしょう。これ以上、何か説明する必要があるでしょうか。そして、虎を養うために崖から身を投げるという行為は、イエスさまの十字架そのものであるといえるでしょう。宇宙開微以来、すべての生物体は食物連鎖によっていのちを繋いできました。その食物連鎖は、「弱肉強食」という姿をとっています。そして、その食物連鎖の頂点にいるのが人間です。しかし、人間の世界も動物と同じ「弱肉強食」の競争社会で、食うか食われるかの世界です。わたしたちは他の誰かの何かを奪って生きていかない限り、生きていけないのが人間社会なのです。そのことが、人間社会に様々な問題を引き起こしてきました。しかも、わたし個人の死は、わたしのもっとも大切なもの-いのちが奪われる最大の出来事なのです。このことを誰も制御することはできません。この現実が、人間が常に抱えている根本的な問題であり、そのことが競争、貧困、飢餓、戦争等という歪んだ形をとって人間社会に問題として現れてきているのです。この捨身飼虎の物語は、この弱肉強食の世界を出離したところに真の真実があることを説いています。しかしながら、人間である限り、決してこの弱肉強食の世界から出離することはできないのです。

 だからこそ、イエスさまはその人間をあわれみ、ご自身が人間となり、人間の食糧となって、わたしたちに食べられることで、わたしたちを世の終わりまで養おうとされるのです。その真実を、イエスさまは人間となってわたしたちに現わしてくださったのです。この王子が我が身を母虎に与えた行為は尊いものですが、その真実は人間が理解できるみことばによってしか、わたしたちに明らかにされることはないのです。ですからイエスさまは真実のみことばと言われているのです。

 イエスさまの受難、死、復活は、この真実を人間に明らかにするためでした。それは、わたしたちがこの真実をみことばを聞いて信じるようになるためです。つまり、生きとし生けるものを生かすために、つまりわたしたち人間を最後のひとりまで残らず救い取るまで、イエスさまはその救いの業を永遠に続ける愛の働きとなって、わたしたちに働きかけて続けておられること、これが主の復活の意味なのです。単なる死人の復活とか、死後のいのちのことではないのです。このイエスさまの業は永遠に終わることがない、愛の働きです。この聖なる過越しの3日間は夫々別のことを祝っているのではなく、イエスさまの永遠の愛の働きを3つの側面、受難、死、復活からから記念しているのです。それをわたしたちは、毎週の日曜日で祝い、1年間に1度だけ、それを特別の聖なる過越しの3日間として祝っているのです。

 わたしたちはこの大いなるいのちのよって生かされていますが、わたしたちはいのちの外にあります。わたしはわたしのいのちを自分でどうすることもできないからです。わたしたちのいのちはわたしのはからいの外にあり、わたしはそのいのちに生かされているのです。わたしたちは、この大いなるいのちの働きに気づかされ、その大いなるいのちの働きに委ねるように、その大いなるいのちの働きはわたしの内にあって、イエスさまのもとに行こうと絶え間なくわたしに呼びかけているのです。その愛の働きにわたしたちが目覚めることが救いであり、わたしたちの死からの解放、復活のいのち、永遠のいのちなのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。