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教会からのお知らせ

復活節第2主日 勧めのことば

2023年04月16日 - サイト管理者

復活節第2主日 福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ20章19~30節)

<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日、復活節第2主日の朗読では、聖書というものが書き残された目的というものが記されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであることを信じるためであり、また、信じてイエスの名によりいのちを受けるためである」と書かれています。つまり、聖書が書かれたのは、わたしたちがイエスさまを通して、真のいのちと出会うためなのです。ですから聖書の言葉を通して、その奥にあるみことばにわたしたちが触れること、出会うことが、わたしたちが復活されたイエスさまと出会うことであるといったらいいでしょう。聖書に書かれているのは、いわゆる物語であって、物語を解釈するのではなくて、その物語の奥にある真実にわたしたちが触れることがいのちなのです。その点から、今日の物語を見ていきましょう。

今日の物語では、復活されたイエスさまと弟子たちとの出会いが描かれています。弟子たちは、イエスさまが亡くなった後、追手を恐れて家に鍵をかけて閉じこもっています。その真中にイエスさまが来られました。そこで、弟子たちは復活されたイエスさまとの出会いを体験します。しかし、その現場に居合わせなかったトマスは、他の弟子たちから話を聞いても信じようとしませんでした。イエスさまは復活されたのですから、どこにでもおられるはずです。その現場にいなかったから、トマスには分からなかったのでしょうか。イエスさまは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」といわれました。しかし、そうであれば、わたしたちは誰一人としてイエスさまを見た人はいませんし、現場に居合わせた人はいません。でもどういうわけか、わたしたちはイエスさまを信じています。これは、もうわたしの力によるのではなく、イエスさまの恵みであるとしかいえません。それならば、すべての人はイエスさまと出会っているのではないでしょうか。

ヘレンケラーの話で、サリバン先生はヘレンの手に水を注ぎながら、もう一方の手に水という字を綴りました。そのときヘレンは手に注がれている液体は、ウォーターという名前をもっていることに初めて気づきます。もちろんそれまでもヘレンは水と出会っていました。しかし、ことばがないから何と出会っているのかわからなかったのです。それが、この自分の手にあたっている冷たいものが、ウォーターという名前があること、この名前こそが水であることがわかったのです。そのとき、すべてのものには名前があることを知って、そこで初めて彼女に世界が生まれたといえるでしょう。ヘレンは今まで暗闇の中に生きていましたが、その世界に光が射しこんできたのです。

わたしたちもイエスさまのことは教会学校で習い、教会でも聞いて、頭ではわかっているでしょう。しかし、それにもかかわらず、わたしたちはイエスさまという存在が、復活されたイエスさま、つまりわたしを救うという現実とひとつであることがなぜか、なかなかわからないのです。イエスさまのことを頭で考えていることが、イエスさまと出会うことだろうぐらいに思っているのです。だからイエスさまのことをしたり顔で話す聖書学者や神学者、聖職者は、さぞイエスさまのことをよく知っているのだろうと思ってしまいます。しかし、イエスさまについて知っていることと、イエスさまと出会うことは全く違っているのです。彼らがイエスさまと本当に出会っているかどうか、誰もわかりません。ほとんどは知識を蓄えることで、出会ったつもりになっているだけかもしれません。

わたしたちは言葉の世界に生きています。言葉がなかったら、人は一日たりとも生きていけません。にもかかわらず、その言葉に苦しめられています。人の心ない言葉に傷つき、嘘の言葉によって騙され、その場限りの言葉に右往左往させられています。言葉巧みな人はそれで得意になっているかもしれませんが、わたしたちはまたその言葉によって傷ついたり絶望したりして悩むわけです。その人たちは、あなたたちがそうなのは神さまへの信仰が薄いからだとか、祈りが足らないからだとか、努力が足らないからだ等々という心ない言葉でわたしを傷つけてくるのです。いくら頑張れと励まされても、そこには本当の喜びが感じらません。この世の言葉は、いくら本当らしく見えても、必ず嘘が含まれています。それが人間世界の現実、限界なのです。しかし、その世界に真実のまことのことばが来てくださったのです。永遠に変わることがない真実のみことば-わたしたちはその方をイエスさまとお呼びしますが-その意味は「わたしはあなたを救う」という名前です。このイエスさまがわたしを救おうと、わたしとの出会いに飢え渇いておられるのです。十字架上のイエスさまの渇き、それはまさしく人類をひとり残らずに救うために、この“わたし”との出会いに飢え渇いておられるイエスさまの叫びなのです。それはわたしへのイエスさまの呼び声でもあるのです。

遠藤周作は『深い河』のなかで、“神”という言葉に拘らないで、それはトマトでも、玉ねぎでもいいといいます。遠藤は、神を愛の働く塊りであるといっています。その大きな愛のいのちの働きがわたしたちを生かしているといいます。それを、わたしたちは唯、言葉で、“神”と呼んでいるだけに過ぎません。その大きないのちの愛の働きが、真のいのちのことばとなったのが、イエスさまです。イエスさまは、わたしを救うといわれる名前なのです。そして、このわたしを救うといわれるイエスさまと出会うことが救いなのです。別に“イエス”という名前が問題ではないのです。トマトでも、玉ねぎでも、何でもいいのです。言葉の世界に傷つき迷うわたしたちに、真実のことばとなって、わたしに呼びかけてくださる方があることに気づかせていただくこと、これが信仰です。この信仰は、すべての人に働き、届けられているのです。イエスさまが復活して生きておられるということは、世の終わりまで人類をひとり残らず救い取るまで、すべての人にその真実のことばが届けられているということ以外何ものでもありません。このことにわたしたちは気づかせていただいたのです。これこそ、イエスさまのわたしへの愛の働きです。わたしたちは、この愛の働きに自らを委ねるように呼ばれており、またそれを人々とともに分かち合うように呼ばれているのです。

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