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教会からのお知らせ

復活節第3主日 勧めのことば

2023年04月23日 - サイト管理者

復活節第3主日 福音朗読 ルカによる福音(ルカ24章13~35節)

<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はエマオへ向かう弟子たちに復活したイエスさまが現れたという物語です。これは、当時の初代教会の中で、復活されたイエスさまと出会う場は何処であるかということが問題にされています。当時の人々は、聖書のみことば、感謝の祭儀、分かち合いの中で、復活されたイエスさまと出会うことができると考えました。それが今日の聖書の物語の中で、イエスさまによる聖書の解き明かし、エマオでの会食、3人の分かち合いとして描かれています。これは、現代においても通用することで、わたしたちが聖書を読み、その解き明かしを聞くとき、感謝の祭儀を祝うとき、わたしたちが分かち合うとき、その中にイエスさまがおられます。この3つの場は、復活されたイエスさまと出会うことができる場として教会が大切にしてきたものです。しかし、この場があれば、自動的に復活されたイエスさまと出会えるかというとそうではありません。イエスさまとの出会いは自動的ではないからです。ですから、聖書を一生懸命勉強して聖書の知識を身につけることで、欠かさずにミサに与ることで、分かち合いすることで、自動的にイエスさまと出会い、心が燃え上がるかというとそれは少し短絡的すぎます。それに心が燃え上がるというのはあくまでも、わたしの心の状態の問題であって、心が燃え上がるということがイエスさまと出会っているという証拠にはなりません。

わたしたちは、とかくすると信仰を心の問題として捉えがちです。しかし、わたしの心はひとときもじっとしていません。あるときは燃え上がり、あるときは意気消沈し、あるときは何ともないというのがわたしたちの心です。わたしの心は絶えず疑いと信仰の間で揺れ動き、それがひとつになることなく、またその思いが持続することもありません。そのようなわたしたちの心の中に、イエスさまとの出会いの証拠や確証などあるはずがありません。それなのに、わたしたちはこのようなわたしの心のどこかに、イエスさまとの出会いや救いの証拠、確証を見出そうと躍起になります。また、ある人たちは自分の心を整えていくことで、イエスさまとの出会いが叶うと主張します。教会が大切にしてきた3つの場を実践し、自分がイエスさまとの出会いに相応しいものになることが大切で、そのようなわたしにイエスさまは当然会いに来てくださると考えます。普通そのように考えるのは、もっともなことだと思います。しかし、そうではないのです。イエスさまとの出会いは、わたしの心の問題ではありません。信仰もわたしの心のもち方でもありません。会いに来てくださるとはイエスさまなのです。わたしたちが何かができるわけではないのです。その訪れはいつも前触れなく突然で、わたしの心の状況などほぼ関係ないのです。

今日の物語で、2人の弟子はイエスさまと出会うために相応しい心の準備をしていたでしょうか。2人はむしろ、イエスさまの十字架に絶望してエルサレムから逃げていく途上だったのではないでしょうか。彼らは、追手が自分たちに及ぶのを恐れ、イエスさまのことなどそっちのけで逃げ出してきたのでしょう。彼らの心はイエスさまを受け入れるようなものは、ひとかけらもなかったのです。さっさとエルサレムをあとにして、自分たちの新しい生活を探していたのではないでしょうか。わたしたちもそうでしょう。結局は自分ことしか考えていないのがわたしです。聖書では「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」とあります。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとはわかりません。イエスさまが一緒に歩いてくださっていて、ともに歩んでくださっていても、彼らは気づかなかったのです。それは、彼らの目が遮られていたからだとあります。そのとき、弟子たちはこの見慣れない旅人と出会って、旅の道連れとしてすでに歩んでいたのです。しかし、それがイエスさまであることに気づきません。にもかかわらず、イエスさまはわたしとともに歩いておられたということなのです。

彼らの目が開かれて、イエスさまであることに気づいたとき、イエスさまは見えなくなってしまいます。その気づきのきっかけになったことが、上で述べられた3つの場でした。しかし、それはきっかけであって、それ自体はイエスさまを指し示すものであるとしても、イエスさまそのものではありません。多くの人は、イエスさまと出会ったきっかけにしがみつきます。そして、そのきっかけがイエスさまであると錯覚していくのです。そして、イエスさまと出会ったという体験を自分の心で握りしめようとします。確かにそのきっかけで、わたしの心に何かが起こったかもしれませんが、わたしの心はイエスさまではないのです。また、その体験がイエスさまでもありません。わたしたちはいつも勘違いします。そんなちっぽけなわたしの体験やわたしの心の中にイエスさまはおらないのです。イエスさまだと気づいた瞬間に通り過ぎていかれるのです。

わたしたちは、イエスさまであると気づかせていただくと、そのことをわたしの心で握りしめ、またその気づきを絶対化していこうとしまいます。しかし、わたしの心でイエスさまを握りしめようとしても、その体験は長続きしません。やがて、その体験は薄れていき、疑いの淵へと沈んでいきます。いっとき雲が晴れたように思いますが、しばらくすると、今までと何も変わらないわたしを発見するだけなのです。にもかかわらず、わたしたちは自分の心に拘り続け、自分の心の中にイエスさまとの出会いの痕跡を探し続けるのです。わたしがイエスさまのことを感じられるとか、わかったとか、納得したとかではないのです。それならどこまでいってもわたしの心のもち方の問題で終わってしまいます。

そうではなく、大切なことは、自分に拘り続け、自分の心の中に信仰の確証を探し求めて、また疑いと迷いの淵に沈んでいるそのわたしとともに、イエスさまは歩み続けておられるということなのです。このような愚かなわたしとともに“イエスさまが”歩んでおられるということだけが真実、まことの信仰なのです。イエスさまは、教会が大切にしてきた3つの出会いの場を通して、生きとし生けるすべてのものを通して、わたしたちの人生のすべてを通して、わたしをはるかに超えたはからいと働きをもって、イエスさまはわたしに絶え間なく働きかけてくださっているのです。

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