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教会からのお知らせ

復活節第6主日 勧めのことば

2023年05月14日 - サイト管理者

復活節第6主日 ヨハネ14章15~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまが“わたしの掟”についてお話になります。わたしの掟とは、イエスさまの願いです。イエスさまの願いとは何でしょうか。それは、イエスさまが愛しておられるように、わたしたちが愛することです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(15:12)」といっておられます。イエスさまが愛しておられるようにイエスさまを愛し、イエスさまが愛しておられるように友を愛することです。よくイエスさまの相互愛について話されるとき、「互いに愛し合いなさい」ということだけがいわれます。しかし、今日の箇所をよく読んでみると、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する人である」と書かれています。イエスさまの願いは、わたしたちがイエスさまの願いを聞き入れること、つまり、わたしがイエスさまに愛されること、そのイエスさまの愛に基づいてわたしたちが互いに愛し合うこと、そのことがイエスさまを愛することであるといわれているのです。イエスさまに愛されること、友を愛すること、イエスさまを愛することとは別々のことではありません。同じひとつのことだといわれているのです。

イエスさまの第一の願いは、わたしたちを愛することです。なぜなら、イエスさまは愛そのものですから、愛さないでいることはできません。愛と訳されている日本語が適当かどうかはわかりませんが、イエスさまの本質は愛ですから、愛さないでいるということができません。しかし、愛の本質は、愛することだけではなく、愛されることでもあります。愛するだけの愛はありません。それはただの一方通行の、自己本位の愛になる可能性を含んでいます。だから、愛は、愛し愛されることによってのみ成立します。しかも、その愛は決して完成されることはありません。愛の本質は、自らのすべてを与え、それを受けるものがすべてを受け取り、また受けたものがそのすべてを返すという終わることがない、いのちの循環が愛だからです。イエスさまの願いは、先ずこの愛を受け取ってほしいということなのです。わたしたちが何かをしたから、何かができたから愛されるのではありません。愛は無償です。頑張って祈って、洗礼を受けて、信者になったから、罪を犯さないような立派な人間になりましたので愛してくださいということではないのです。それなら、わたしは計算して、イエスさまと駆け引きをしているだけです。聖書の中の「天に宝を積みなさい」という言葉は、教会の中で間違って説明されてきました。イエスさまはそのような愛し方はなさらないのです。わたしをわたしであるというそれだけの理由で愛されるのです。

なぜなら、わたしたちのもっとも根源的な願いは、愛されることだからです。結局、わたしたちは認められたい、大切にされたい、尊重されたいという自分の小さな我欲の中で蠢いているのです。わたしたちは愛されたいのです。そして、愛したいのです。そのわたしをまったく何もなしに、そのまま愛するとイエスさまはいわれるのです。その愛は何かができたら愛してあげる、というような条件付きの愛ではないのです。水が高いところから低いところに流れるように、自然なものなのです。その愛をいのちといっていいかも知れません。イエスさまは、その愛を受けてほしいと願われているのです。実は、これができなければ一歩も前に進めないのです。愛されたことがわからない人が、どうして愛することができるでしょうか。イエスさまの願いは、この愛を受け取ってほしい、そしてこの愛をもって互いに愛し合ってほしいというのです。イエスさまの願いは、単にわたしがよい人間になるとか、洗礼を受けるとかそんなことではありません。イエスさまの願いは、愛を受け取って、愛を生きてほしい、つまり、わたしと同じ願いをもって、わたしと同じことをしてほしいと願われているのです。これが、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」ということの意味なのです。その愛に何の条件もありません。

イエスさまは、お前を救ってやるとか、恵みを与えてやるとかそういうことをいっておられるのではないのです。今までは、わたしとお前たちは、主人と僕の関係だったけれど、もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人の顔色だけを窺っていて、主人の本当の願いを知らない。しかし、わたしはわたしのすべてを知らせた。わたしの掟、わたしの思い、わたしの願いをすべて話した。そして、そのようにあなたがたを愛してきた。だから、あなたがたはもう僕ではない。友である。わたしとあなたはひとつ、同体である。だから、あなたがたは、わたしの願いを自分の願いとし、わたしと同じ働きをするようになると。イエスさまの根本の願いは、わたしとひとつになってくれ、同じになってくれという願いなのです。その願いに目覚めたものの名前がキリスト者ということなのです。ですから、イエスさまの本当の願いを知らず、その願いに気づいていないのであれば、いくら洗礼を受けていてもキリスト者ではありません。洗礼を受けていなくても、イエスさまの願いに気づき、それを生きているならばキリスト者なのです。キリスト教徒即キリスト者ではない、洗礼の有無など関係ないのです。

そのイエスさまの願いが実現するとき、愛する側と愛される側、救う側と救われる側、助ける側と助けられる側、こちら側とあちら側という区別がない世界が出現するのです。もはや天国地獄の区別もありません。というか、元々そのような区別などないのです。ただ、人間がその区別を作り出してきただけなのです。そして、そのような区別が絶えた世界、これを神の国というのです。イエスさまは、単なるカトリック教会という名を借りた慈善団体やNPO法人になれといわれたのではありません。イエスさまは、わたしの願いを生きてくれ、あなたがたの心の底にある本当の願いに気づいて、生きてくれということなのです。これがイエスさまの新しい掟なのです。わたしたちはこのようなイエスさまの大きな願いのうちに収め取られているのです。

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