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教会からのお知らせ

主の昇天 勧めのことば

2023年05月21日 - サイト管理者

主の昇天 マタイ28章16~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の昇天のお祝い日ですが、主の昇天が何であったかを解説すること自体あまり意味がありません。主の昇天とは、主の復活という出来事を体験した弟子たちが、自分たちの復活体験を表現したひとつであるといえるでしょう。むしろ、今日の箇所で「弟子たちは…そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑うものもいた」と書かれています。そこで、信じることと疑うこと、これがいったいどういうことかということが問題提起されています。今日はそのことを深めていきたいと思います。

わたしたちは、福音書にそのように書かれているのを読むと、イエスさまの弟子たちの中にも不信仰ものがいたのかと思い、弟子たちはそうだったのかと不思議に思ったり、別の意味で安堵したりします。なぜなら、わたしたちも同じ問題を抱えているからです。わたしたちも信じきれないとか、信仰が薄いとか、信仰が篤くならないといって、どうしてどうしてと嘆くのです。それは、わたしたちは信じることというのは、わたしの心の問題で、疑うこともぶれることもない、確固とした信念の中に留まることができるようにならなければならないと考えているからではないでしょうか。そして、イエスさまの直弟子たちは、きっと素晴らしい確固とした信仰をもっていたに違いないと勝手に想像しているのです。

キリスト教では、信仰というと人間の意志の行為を強調しますが、そもそもわたしたち人間が疑いなく信じるということができるのでしょうか。たとえ疑いというものがあっても、疑いが消滅して、疑いなく一心に信じることができるようになるのでしょうか。また、そのように信じることができたとしても、そのような状態を持続することができるのでしょうか。なぜそのような問いが出てくるのかというと、わたしたちは信仰をわたしの心の状態だと捉えているからでしょう。昔の公教会祈祷文の中に信徳唱というのがあって、「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますがゆえに、我は主が公教会に垂れて、我らを諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る」と唱えていました。ガリレオの時代ならそれでも通用したかもしれませんが、現代で、教会が教えていますからわたしは信じますなどというのは、単なる危ない集団ではないでしょうか。また、たとえ信じることができたとしても、その信じていることが本当であると誰が証明してくれるのでしょうか。過去の教会は、教会が教えていることを疑うこと自体が罪であると教え、力で信徒に信仰を強要してきました。疑いなどもたないで、そのまま信じることがよい信者だと教えてきました。どうして、そのようになってしまったのでしょうか。

そのようなことが起こってくるのは、信仰宣言の中でも「わたしは…信じます」と唱えているように、信仰の主体をわたしたち人間であると捉えることから起こってきた問題なのです。信仰を人間のもの、つまりわたしの信仰であると考えると、信仰はわたしの所有物ですから、わたしの力でどうにかなるということになります。だから人間の意志で、つまりわたしの力で、信仰を強めることができるということになります。しかし、実際のところ、信仰はわたしの力ではどうにもなりません。それなのにわたしたちは自分の力で何とか信仰を強くしようと頑張るのです。しかし、人間の力でどうにもならないので、今度は権力とか権威で強要するようになってしまいました。少し正直に自分の心を見ればわかることなのですが、わたしたちは信じようとすればするほど、疑いが起こってきますし、無理強いすればするほど、反発する心が起こってきます。頑張って聞いていけば信仰が深まるどころか、聞けば聞くほど疑いが深くなるというのが偽らざる人間の心の姿ではないでしょうか。わたしたちは自分の心の中に信仰の確証や救われた証拠を求めるのですが、わたしの心自体が自分の力でどうにもならないのに、わたしの心が信仰において確固としたものとなるなどあり得ないのです。わたしたちは、わたしの心が満たされることや、自分が楽になること、平和な気持ちになることを求めているだけであって、それならわたしの心のあり様の問題にとどまっているだけです。しかし、信仰はわたしの心の問題ではないのです。信仰をそのように捉えている限り、わたしたちは真実に触れることはできません。

大切なことは、そのような不信仰な、心の定まらないわたしたちにイエスさまが近づいて来られたということです。「イエスは、近寄ってきていわれた…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」。このイエスさまのことばだけが真実なのだといえるのではないでしょうか。わたしが信仰深かろうが、不信仰であろうが関係ないのです。イエスさまが近寄ってきて、わたしとともにおられるのです。このイエスさまの真実が信仰なのです。信じるという漢字の「信」という言葉は、もとは真理の「真」と同じ意味であるといわれています。信号機という交通標識がありますが、信号機は嘘をつきません。もし信号機が信用できないのであれば、誰も安心して道路を渡れません。そのときの信号機の信は、“真(まこと)”という意味なのです。この信号機は信じられるだろうか、信じられないだろうかと考える人はいません。わたしがどう思うかというわたしの考えや心に関係なく、信号機はいつも真実です。ですから、いつも安心して道路を渡ることができます。いくらわたしがどうしたら救われるだろうか、この方を信じていいのだろかとわたしの心で算段しても、信仰は決して確固たるものにはなりません。それが、信仰をわたしの心の問題だと考えているということなのです。救いはわたしの問題ではなく、「わたしを救う」という名のイエスさまのなさることです。イエスさまの真実、イエスさまの信の問題なのです。だから、わたしたちが何であってもなくても関係ないのです。

そのことがわからないので、わたしは救われるだろうか救われないだろうか、わたしの心で考え続けます。また、わたしはゆるされるだろうかゆるされないだろかとか、ゆるしの秘跡に行かないとゆるされないのではないかとか、わたしが自分の心で考えているだけなのです。イエスさまが救う、イエスさまがゆるすと仰っているのに、それをわたしが真実か真実でないかをわたしの心で算段しているのです。これはイエスさまを信じているといいません。イエスさまと駆け引きしているだけか、イエスさまを試しているだけであって、これほどイエスさまに失礼なことはありません。教会は、人間の努力や功徳、はからいによって、救われるか救われないか、ゆるされるかゆるされないかが決まるかのように教えてしまいました。そのような教え方をしてきたこと自体が大きな問題でした。救い、ゆるされるのはイエスさまです。イエスさまが世の終わりまでいつもあなたがたとともにいるといわれたのですから、わたしたちが救われ、ゆるされるのは永遠の昔から決まっています。そのことを、わたしが今このとき、今生で、そのイエスさまのみことばを信じること、それが真の信仰を生きるということなのです。ですから、イエスさまを信じるということは、わたしのはからい、算段を捨てること、わたしを捨てるということなのです。今というこの刹那のときにおいて、わたしが無我となることなのです。わたしたちはいつまで、旧約の世界でうろついているのでしょうか。

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