三位一体の主日 勧めのことば
2023年06月04日 - サイト管理者三位一体の主日 福音朗読 ヨハネ3章16~18節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は三位一体のお祝い日です。聖霊降臨の翌週にわたしたちは、三位一体のお祝いをしますが、それは無関係にお祝いしているのではありません。聖霊降臨の主日においては、わたしたちはわたしたちのうちに注がれているというか、わたしたちを根底から生かしている神のいのちをお祝いしました。それに対して、今日はその神のいのちの働き方をお祝いします。ですから、結局は同じ事をお祝いしているのです。この大いなるいのちは、あまりにも大きくてわたしたちには理解も、把握することもできないのと同時に、わたしたちが生きているいのちですから、あまりにも当たり前で、わたしたちが意識しないほど日常的になっているいのちでもあります。海の中にいる魚は、海を離れては生きられないのですが、だからといって自分が生きている海というものを意識することはないのと同じようなものです。そのいのちのあり様が父と子と聖霊、三位一体といわれています。
わたしたちは、わたしたち生きとし生けるものを根底から支え生かしている大いなるいのち、この世界、この宇宙を成り立たせている根本的ないのちについて、わたしたちは見ることも、知ることも、把握することもできません。それは海の魚が、自分が泳いでいる海を意識することができないように、わたしたちを生かしている大いなるいのちを意識することはできません。「いまだかって、神を見たものはいない(ヨハネ1:18)」と聖書でも述べられているように、わたしたちは、神ご自身の実体を見ることも知ることも、理解することもできないのです。いのちそのものの実体は、色もなく、形もありません。しかし、そのいのちが限られた個体の中に宿るとき、そのいのちをわたしたちは生身のものとして認識することができます。この大いなるいのちそのものが、地上の限りある人間として宿られたのがイエスさまです。ですから、イエスさまは人間によって知られることとなられた神、いのちの主なのです。つまり、己がいのちであるのにもかかわれず、いのち本来の姿を捨てて、いのちの還流に逆らっている人間に、限りある人間となって、いのちの本来の姿、あり様を示してくださったのがイエス・キリストです。
そのイエスさまが第一にいわれたことは、大自然に聞くことでした。「野の花を、空の鳥を見なさい」ということが代表的ですが、それ以外にさまざまな自然界のたとえ話を話されました。成長する種のたとえ、種まきのたとえなどです。そして、次にはいのちを生きている人間の姿をさまざまなたとえ話で教えられました。よきサマリア人のたとえや放蕩息子のたとえなどです。そして最後には、ご自分の生き様で、いのちの姿を示されました。それが受難、死、復活です。それによって、いのちは、自分のいのちを他のいのちに与えることによってのみ、本来のいのちになることができるということを示されました。わたしたちは神仏に、家内安全や健康長寿、また大願成就などといって願いますが、それらはいずれも自分のいのちが安泰で、一日でも長く生きながらえること、そのためであれば他のいのちを利用してでもながらえることです。このように、最後まで自分のいのちを握りしめているのが人間なのです。しかし、それはいのちの本来の姿ではありません。聖霊降臨の説教でもお話ししましたが、わたしたちは、宮沢賢治の銀河鉄道の夜に出てくる、いたちに追いかけられて井戸に落ちるまで自分の身勝手さに気づかなかった蠍のようなものです。でも、蠍は井戸で溺れかけて「ああ、わたしはいままでいくつのもののいのちをとったかわからない、そしてそのわたしがこんどはいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうぞ神さま。わたしの心をごらんください。こんなにむなしくいのちをすてずどうかこの次はまことのみんなの幸いのためにわたしのからだをおつかいください」と祈ります。蠍をもってそのように祈らせたのは蠍ではなく、蠍を生かしていたいのちであって、そのいのちと同じいのちがわたしたちの中にも流れているのです。そのいのちの流れ、その働きをわたしたちは聖霊というのです。
聖霊はすべての生きとし生けるものを生かしているいのちであり、蠍をそのように祈らせたいのちなのです。自分さえよかったらいいと思いで生きてきた蠍が、死の間際に井戸の中で自分のいのちに目覚めさせたそのいのちの働きを聖霊というのです。誰かに教えてもらったわけでもなく、本を読んでわかったのでもありません。自分の内なるいのちに目覚めたのです。三位一体とは、この大いなるいのちの流れであり、色もなく、形もなく、認識することもできないいのちを、イエスさまを通して人間が認識することができるようになったいのちです。そして、その大いなるいのちの働きを知らしめる働きとなって、他に働きかける働き、このいのちの大いなる還流こそが、三位一体であるといえばいいと思います。
ですから、三位一体というのはわたしたちと別のところにあるとか、わたしたちとは関係ないものではなく、わたしたちは三位一体のいのちの還流のただ中におり、そのいのちを生きており、そのいのちに気づくよう呼びかけられているのです。ですから、わたしたちの周りにある生きとし生けるものはすべて、わたしをいのちの目覚めさせようとしているいのちであることがわかります。そして、そのいのちに気づかされたわたしたちは他のいのちに働きかけ、ともにこの大いなるいのちを生きていくように呼ばれていることもわかります。そうなるとわたしの個人のこだわりや個人の死は大きないのちの中に飲み包まれてしまいます。それと同時に他のいのちを限りなく大切にしていくことの意味もはっきりしてきます。キリスト教は自分が救われて天国にいく宗教ではないのです。この生きとし生ける衆生、全世界とともに救われることなくして己の救いはない、これがキリスト教なのです。