information

教会からのお知らせ

年間第16主日 勧めのことば

2023年07月23日 - サイト管理者

年間第16主日 福音朗読 マタイ13章24~30節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえ話は、善悪という問題をどのように捉えるかということです。実は、今日の毒麦のたとえはマタイ福音書だけにみられるものであり、共観福音書のマルコ、ルカには見られないものです。ですから、今日の箇所はイエスさまに由来するたとえ話というより、マタイの教会の問題が背景にあって、マタイが独自に書いたものであるということができます。マタイの教会の抱えていた問題は、すでにエルサレムの都が滅亡して、自分たちこそ正統なイスラエルの民の後継者であると主張しつつも、ユダヤ教とは袂(たもと)をわけていかざるを得ない状況にあったということです。ですからマタイは、イエスに由来するマルコのたとえ話を受け入れながらも、自分たちの都合の悪いものは削除し、自分たちの主張を展開していくことになっていきます。それがまさにマルコ福音書にだけ出てくるテーマ、よい麦と毒麦、賢いおとめと愚かなおとめ、羊と山羊という区別をするということです。これは、ユダヤ教の中でファリサイ人が自分たちを「わけられたもの」として、自分たちのアイデンティティを作っていった同じ発想です。マタイの教会も、“わける”ということで自らのアイデンティティを形成しようとしていったということです。

そこで、元々マルコ福音書にあった「成長する種のたとえ(4:26~29)」を作り変えたものが、今日の毒麦のたとえであるといえるでしょう。マルコの「神の国は次のようなものである。人が土に種をまいて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそのようになるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂は豊かな実ができる」というたとえ話は、マタイの教会にとっては都合が悪かったのでしょう。ユダヤ教と対立し、自分たちのアイデンティティを確立していかなければならないときに、種は人の知らないところで元気に自ずと成長していくというたとえ話は適切ではないと考えたのでしょう。だから、よい麦と毒麦というたとえにすり替えがおこなわれます。からし種とパン種のたとえは残しますが、「成長する種のたとえ」は、マタイ福音書からも、ルカ福音書からも省かれてしまいます。おそらく、神の国はすべてのものに等しく及んで、働いているというイエスさまの主張は、初代教会においてはほぼ理解されなかったのでしょう。事実、その後のキリスト教は、他を排除していくということによって、アイデンティティを確立してきました。確かに自分たちに反対していくものに対峙していくことは、大変難しいことです。しかし、結局、キリスト教は自分たちと意見の異なるものと対話し調和していく道ではなく、彼らを異端として排除していく道を選んでいくのです。これがキリスト教の歴史です。

しかし、イエスさまの救いというものは、老若男女、善悪の差異を超えた平等の救いであったのではないでしょうか。キリストはすべての人のために死なれたのではないのでしょうか。それとも毒麦にたとえられる人や愚かなおとめ、山羊にたとえられる人のためには死なれなかったとでもいうのでしょうか。毒麦をまいたのは敵の仕業だといいますが、敵を作り出しているのは一体だれなのでしょう。それは他ならぬこのわたしなのではないでしょうか。わたしたちはいつも自分の都合を中心にして、愛するものと憎むもの、味方と敵、内と外、上と下といったあらゆる区別と差別、境界線を作り出していきます。「あの人も、この人も、あの悪い人も、このよい人と同じように救われるのですか」という質問がよく、教会の中でもなされます。わたしたちの考えている神の国は、わたしの好きな人だけが集まった世界、わたしの嫌いなあの人、わたしをいじめたあの人、わたしの敵を受け入れない世界なのです。そんな自分たちに都合のいい神の国がどこにあるのでしょうか。わたしたちは無意識のうちに善悪を判定する判定者になって、自分は善でも悪でもないところに立って考えている、このようなわたしは一体何者なのでしょうか。わたしがよい麦にも毒麦にもなる、何が善か悪かもわからないわたしが、一体どのようにして救われるというのでしょうか。

わたしたちは善人だから、よい結果をだしたよい麦だから、賢明な判断をしたよいおとめだから、もっとも小さいものに施したものだから救われるのではないのです。そんなことさえわからないわたしなのです。わたしたちは生きていくときに善だけで生きられるということはない、また悪だけという人もいないのではないでしょうか。善いことをおこなえる状況にあれば、よいことをいったり、したりすることもできるでしょう。しかし、悪を行わざるを得ない状況に置かれたら、どんな悪いことでもしてしまうのが人間なのです。わたしがよい心の人間だから悪いことをしないのではないのです。たまたま、そうなのです。イエスさまの話を聞いて、感動に打ちひしがれるときもあれば、何にも感じないときもある、たいそう立派な美しい心になったと思えるときもあれば、自分の心のどす黒い醜さに絶望してしまうときもあるのではないでしょうか。わたしの心が善くなり、清くなったから救われるのでしょうか。わたしの心が醜い、また罪人だったら救われないのでしょうか。そうではありません。イエスさまは「わたしはあなたを救う」というお名前です。イエスさまが、「わたしはあなたを救う」といわれるからわたしたちは救われるのです。救いはイエスさまの働きです。それなのに人間が善悪の区別を作り出したり、山羊や羊の区別を作り出したりして、イエスさまの救いを人間が決めるような小賢しいことをすること自体、愚かなことであり、イエスさまのお心に沿うことではないのです。救いは人間の善し悪しによって決まるのではなく、イエスさまのすべての人を救うというお約束によるのです。イエスさまご自身がすべてのものをもれなく救うと誓われたご自身への誠実が、わたしたちの救いの根拠なのです。 

イエスさまはわたしたちを救われるのは、わたしたちの中には何かよいものがあるからではありません。わたしたちはイエスさまによって救っていただかなければ、あわれんでもらうことしかできない存在なのです。わたしたちはイエスさまにあわれんでもらうしかない、何をしでかすかわからない、あわれな罪人なのです。別にあれやこれやの罪を犯したということではなくても、何でもしてしまう得体の知れない存在なのです。その罪悪深重の凡夫を救うといわれるイエスさまの誓い、そしてそのイエスさまのご自身への誠実によって、わたしたちは救われるのです。それなのに、わたしたちは我が身の善し悪しをはかり、小賢しい小手先のわざでイエスさまの救いを推し量ろうとするのです。唯々愚かとしかいいようがありません。わたしの善し悪しやわたしの小賢しい理屈など何の足しになるというのでしょうか。わたしはよい麦で、他の誰かが毒麦とでもいうのでしょうか。マタイの教会のときから、そんなことをやってきたのがわたしたちなのです。単に、わたしたちをいつくしんでくださいなどとはいえないのです。どうぞ、主よ、わたしをあわれんでくださいとしかいうことができないのが、わたしたちなのです。

お知らせに戻る

ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。