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教会からのお知らせ

年間第17主日 勧めのことば

2023年07月30日 - サイト管理者

年間第17主日 福音朗読 マタイ13章44~46節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえ話は、イエスさまのたとえ話というものを理解していくための大切な視点が描かれています。多くの聖書の釈義や説教では、畑に隠された宝、高価な真珠は神の国であり、わたしたちがすべてにおいてそれを捜し求めなければならないというふうに説明されます。確かに神の国がわたしたちの間に到来しており、すべてにおいてそれを探し求めなさいという主張からすると、そのように解釈されるのが普通でしょう。また、マタイの教会の置かれていた状況から考えると、すべてのものを売り払ってでもそれを手に入れたいと願う、それが神の国なのだと説明するのが当然かもしれません。そして、その喜びということが強調されるのでしょう。しかし、普通ならそんなに素晴らしいものであれば、どんなことをしてでも手に入れるということは、理屈にかなっており、そのことに誰も反対する人はいないでしょう。でもよく考えると、誰もが納得できる話をなぜわざわざ、イエスさまはたとえ話で話す必要があったのでしょうか。人々に神の国の素晴らしさを説明するために、わざわざ、このようなたとえが用いられたのでしょうか。そのままいえばわかるのではないでしょうか。

わたしたちは、このたとえ話の中で、畑を買う、また真珠を探し求めて買うというときの主語を、わたしたちだと思い込んでいるのでないでしょうか。神の国のたとえは、いつも神さまの働き、その神秘をわたしたちには解き明かすために用いられてきました。それであれば、その主語はわたしたちではなく、イエスさま、神さまではないでしょうか。あらためてイエスさまを主語にして、このたとえを読み直してみたいと思います。そうすると、宝を探す人、商人はイエスさま、そして、宝が隠されている畑、高価な真珠は、わたしたち人間のことになります。事実、イエスさまはわたしたちのために、自分の持っているものをすべて売り払って、わたしたちを買い取ってくださいました。これがイエスさまの十字架の意味です。パウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られた(Ⅰコリ6:20)」「神の畑(同3:9)」なのです、といっています。わたしたちは、イエスさまからみたら、高価な真珠、宝が隠されている畑なのです。先々週の種まきのたとえで、種がまかれている畑、その畑がどのような畑であっても、その土地には種がまかれているということがいわれました。その畑が荒れ地で、茨の地で、ごつごつした岩だらけの土地であれば、わざわざそれを買おうとする人はいません。しかし、イエスさまにとっては、わたしたちは皆、宝が隠されている畑なのです。どんなに酷い土地であろうと、また豊かな実りをもたらす畑であろうと、もたららさない畑であろうと、宝が隠されている、つまりイエスさまにとって愛おしい土地なのです。そのことをイザヤは「あなたを創造された主は、あなたを造られた主は、今こういわれる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ...わたしの目にあなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛する...恐れるな、わたしはあなたとともにいる(イザヤ43)」といいます。わたしたちは、かけがえのない価値のある、大切なものなのです。イエスさまは決して、わたしたちを上から目線で救ってやろうというのではなくて、すべてを投げうって畑を買って、自分が泥まみれになってでも、わたしを探しておられるのです。イエスさまにとっては、わたしは大切なものなのです。わたしが素晴らしい豊かな土地だからそうしておられるのではないのです。

わたしたちは競争と区別、結果と評価の世界に生きています。だから、競争に勝って選ばれ、より優れたものになり、結果をだして認められなければ価値がないというような価値観を生きさせられています。一般の社会でもそうなのに、宗教の世界にまでその価値観が持ち込まれてしまっています。洗礼を受けて、神さまに選ばれたものにならなければならないとか、たくさんお祈りして、施し善行をして、社会貢献しなければならないとか、もちろんそれらのことは素晴らしいことには違いありませんが、そのこととイエスさまがわたしたちを愛されておられることとは何の関係もありません。イエスさまは、わたしがしたこと、しなかったこと、わたしが罪人であったか、なかったかに関係なしに、わたしを愛し、大切にしておられます。イエスさまは、わたしをわたしであるということだけで、わたしを愛しておられるのです。そのために、自分のすべてを売り払って、血を流して、わたしを探し求め、わたしを買い戻してくださった、わたしたちを地獄の淵から引き出し、解放してくださったのです。それは、わたしたちが魂の深みにおいて、愛され、受け入れられ、認められ、大切にされることに飢えかわいているからなのです。なぜなら、わたしたちは拒否され、拒絶され、傷つけられ、心のうちに寂しさと孤独、絶望と闇をかかえていることを、イエスさまはだれよりもよく知っておられるからなのです。イエスさまは神さまなのです。わたしたちに何が本当に必要なのかを知っているのは、わたしではなく、イエスさまなのです。このイエスさまがご自身の愛を全人類に知らせるためには、たとえで話すしかないのです。体験したことも、考えたこともないものに、真実を話してもわかるわけがありません。だから方便として、イエスさまはたとえを用いられたのです。それが、宝が隠された畑、高価な真珠のたとえなのです。そして、イエスさまは、真実の愛を具体的に知らせるために、わたしと同じ人間となって、血を流して、十字架にかかられたのです。それは、そこまでしなければ、競争社会に生きさせられ、結果を出すことを求められ、駆け引きの世界で生き、拒否され、拒絶され、傷つけられて、傷ついて、自己の中に閉じこもって、“それがすべてだと思い込んでいる”わたしたち人類に、真実の愛を伝える方法が見つからなかったからなのです。

神の国が素晴らしいからそれを手に入れるために頑張りなさいというのであれば、小学生でもわかります。そして、教会でもそのように教えられてきたことで、イエスさまの話を聞いてわかっているつもりになっているだけで、結局はこの世の競争原理と何も変わらない価値観をわたしたちは生きているのです。わたしたちは、イエスさまのことをわかっていると思い込んでいる、しかし、実はイエスさまのことを何もわかっていない、その大きなずれに気づかないほど愚かなのです。ですから、わたしたちはイエスさまにあわれんでもらうしかできないあわれな、愚かな罪人なのです。イエスさまの本当の愛が知らされることで、わたしたちは自分の本当の罪、無明について知らされます。本当の罪とはこのイエスさまの真実を知らないで、駆け引きでイエスさまと何とかやり取りをしようとしていること、それを信仰生活だと錯覚していることなのです。イエスさまを知らされれば知らされるほど、わたしたちは自分の中にある愚かさ、闇が知らされ、イエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人であることが見えてきます。イエスさまを知るということは、自分を知るということであり、自分を知るということは、イエスさまを知ること、イエスさまと出会うことなのです。このことを人間にそのままいってもわかりません。だからイエスさまはたとえで話されるのです。

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