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教会からのお知らせ

主の変容 勧めのことば

2023年08月06日 - サイト管理者

主の変容 福音朗読 マタイ17章1~9節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の変容のお祝い日です。3人の弟子の前に、栄光に輝くイエスさまが現れます。多くの聖書の注解では、受難予告をうけた弟子たちが、失望してしまわないように、弟子たちを勇気づけるための出来事であったとされています。全体的な構成は、主の受難予告の前にペトロの信仰告白があり、その後、主の変容の出来事、続いて弟子たちの不信仰の問題が取り上げられています。最初の受難予告の後には、弟子たちの不信仰、2回、3回目の受難予告の直後には、弟子たちの主導権争いが描かれています。つまり、ここではイエスさまとは誰か、弟子たち、人間とは一体何かということが問題になっているのです。

まず、弟子たちに対して「あなたがたはわたしを誰だというのか」という、イエスさまの問いがあります。これはわたしたちにも問われていることであるといえます。わたしたちはイエスさまに対して、それぞれ自分勝手な都合のいいイメージをもっています。それに対してイエスさまは、自分はエルサレムで人々の手に渡されて、殺されるという事実を示していかれます。しかし、弟子たちは自分勝手な、自分たちに都合のいいイメージをイエスさまに対してもっていますから、それを受け入れることができません。その自分中心な弟子たちに対して、イエスさまは、変容の山で栄光に輝くご自身と、エルサレムで自分のいのちを与え尽くしていく身とが同じであることを示されました。しかし、それに対して出てきた弟子たちの反応は、いずれも無理解と自分たちの都合の優先でした。これは弟子たちの問題だけでなく、わたしたち人間、もっといえばイエスさまが救いの目当てとされる人間、なぜわたしたちが救われなければならないかという問題にまで広がっていきます。

ペトロはイエスさまに「あなたは、神の子、メシアです」と立派に信仰告白しながらも、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの、神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱られてしまいます。これもペトロのことだけではなく、わたしたちひとり一人のことなのだと考えなければならないと思います。わたしたちは、教会の教えとして、イエスさまが三位一体の第二の位格で、神の子であり、救い主であることを知り信じています。そして、日曜日ごとにも信仰告白しています。しかし、どうも神さまのことを知っていることと、人間が思っていることとは同じではないようです。イエスさまが「あなたは人間のことを思っている」といわれたことはどういうことでしょうか。わたしたちは、自己本位ではいけない、人の立場に立って考えましょうとか、共感が大切だというふうに聞かされます。ペトロもイエスさまの身の上を心配して、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、いさめているのだと思います。一見すると、ペトロはイエスさまの立場に立っているようにも見えますが、しかしそうではないとイエスさまはいわれます。人間は、どこまでいっても自分本位にしか物事を考えられないのです。どういうことでしょう。

わたしという存在は、わたしでないもの、あなたや彼らでないものがわたしです。わたしはわたしで、わたしはあなたではないのです。そして、わたしのいるところは“ここ”ですが、あなたのいるところは“そこ”であって、相手のいるところは決して“ここ”にはなりません。わたしは、いつもわたしのいるところから離れることはできず、決して相手のいるところが“ここ”になることはありません。どこまでいっても、自分本位で、自分勝手なのがわたしなのです。これは善い悪いの問題ではなく、これが人間の本性なのだということです。イエスさまは、あなたがたは自分本位をやめて、他人本位になりなさいといわれたのではないのです。わたしたちはどうしても、他人本位になることはできません。あなたがたは、他人本位になっているつもりになっているが、どうやっても他人本位になることはできないということを、きちんと自覚しなさいといわれたのです。自分は他人本位にやっているとか、他者のためにやっているという無自覚や善意、奢りが、人々を傷つけているということを知りなさいといわれたのです。あなたは自分本位にしか生きられないことを、もっときちんと自覚しなさいといわれたのです。これがわたしたち人間の抱えている本性であり、問題なのです。それに対して、唯一わたしとあなたの区別をなくされた方がいます。それが、救い主といわれたイエスさまです。イエスさまが人間になられたということは、イエスさまがわたしになられたということなのです。もし、わたしが他人本位になるというならば、わたしが死ぬか、あるいはこの世からいなくなるという以外に方法がありません。

わたしたちは、神さまが先にあって、その後、神さまがお創りになった人類が堕落して救いが必要になったと考えます。教義上は、確かにそうかもしれません。神さまが先にあって、後から登場したわたしたち人類に救いが必要になったと考えます。しかし、現実はそうではないと思います。救われなければならない人類がいた、だから神さまは人類を救うという願いを起こされたのです。そして、人間を救うということが神さまの本質です。となると、人間を救わないではおれないという願いを、わたしたち人類が引き起こしたのだというふうにもいえるわけです。つまり、わたしたち人間の苦しみ、痛み、悲惨の中に、イエスさまの願いが含まれているということなのです。神さまの存在と救いを必要とするわたしたち人類をわけることはできない、絶対矛盾的相即関係にあるということだと思います。もし、神さまが人類を救われないのであれば、神さま自身が自己矛盾に陥ってしまいます。なぜなら、神さまは人類を救うことによって神さまであるからです。また、人類がいるということは、神さまが必ずいるということになります。なぜなら、神さまなしに人類というものはあり得ないからです。このように、神さまとわたしは決して、お互いに相手なしに存在することができない存在なのです。そのことがはっきりと示された出来事が、神がわたしとなるという、イエスさまの受肉の神秘です。決して救われないわたしに、神さまがわたしになられたという出来事が、イエスさまの受肉の神秘であり、そのイエスさまの真実の姿が現された出来事が主の変容であるわけです。

主の受肉と主の変容という出来事を通して、わたしはわたしであって、あなたではない、決して他人になることができない自分本位であるわたしたち人間に、神さまはわたしになられたということが示されました。さらに、その変容の出来事によって、実はわたしたちは神さま、この世界とひとつであって、一体なのだという真実の世界、本来の世界、真理が明らかにされたのだということができるでしょう。イエスさまのうちにおいて、わたしたちは神と、また全人類と、全宇宙はひとつであるということが示されたのです。それに対して、わたしたちは自分の都合、自分のレンズで再構成した世界が本物だと思い込んでいる、これこそが人間のことを思っているということであり、これが不信仰ということなのです。

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