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教会からのお知らせ

年間第25主日 勧めのことば

2023年09月24日 - サイト管理者

年間第25主日 福音朗読 マタイ20章1~16節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はぶどう園の労働者のたとえです。ここでは、神さまの絶対平等性について語られています。今日の福音を読むと、朝早くから働いても、夕方5時から働いても同じ報酬を支払うぶどう園の主人の姿が描かれています。これこそ、イエスさまの救いの絶対平等性を現しているといえます。そのイエスさまの救いのあり様が、神の国であるといったらいいと思います。宗教は、この絶対平等性を説くのが本来の姿です。しかし、ことはそれほど単純ではありません。

なぜなら、宗教というものは、本質的に差別を生み出す危険を抱えているからです。というのは、どの宗教もそうですが、宗教は救いということを説いていきます。あなたは救われたんですよということで、その人に特別な意識をもたせ、その人を幸せにしようとしていきます。それ自体悪いことではありませんが、これは一歩間違うと麻薬になってしまいます。あなたは救われたといった瞬間に、救われたものと救われていないものの区別を作り出してしまうからです。わたしたちは、救われるということは特別なことで、救われたわたしは特別なものだと無意識に考えているからです。このことが、宗教についての根本的な間違い、錯覚を生み出していくのです。わたしたちは、イエスさまはすべての人の救い主であることは、頭で分かっています。しかし、そのことを正しく理解しているかどうかはわかりません。第1朗読の中でも「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたがたの道とは異なると主はいわれる。わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」といわれています。

わたしたちは、救いというものを、やはり善悪優劣の世界の延長でしか考えることができないからです。そもそも、わたしたちは何が善で悪であるかわかっていません。しかし、わたしたちは自分で善悪の線を引いて、自分は善人の方に入ってそれで安心して、それで救われると思っているのです。そして、自分の都合の悪いあの人、自分の憎たらしい敵であるあの人は悪であると決めつけ、救われることなど願っていないのです。わたしの考えている救いは、わたしの好きな人、都合のいい人だけを善として集まった世界を作り出し、それを天国と呼んでいるのにすぎないのです。宗教が救われる側と救われない側の線引きをした瞬間、宗教は根本的に自己矛盾を抱えてしまうのです。イエスさまを信じれば救われると教えられてきましたが、それでは、信じるものは救われるが、信じないものは救われないという差別を作り出しているのに過ぎません。

また、もうひとつの問題は、わたしが信じるという行為が、救いの結果ではあるかどうかということです。そもそも、信じるという人間の行為そのものが不安定なものです。わたしたちはなぜ信じようとするのかというと、それは疑っているからなのです。明らかに確実なものであれば、わたしたちはそれを信じる必要はありません。目の前にあるものを信じるとはいいません。イエスさまを信じるということは、わたしはイエスさまのことを疑っているということなのです。不確かだから信じようとするのです。いろいろな本を読んだり、いろいろの修行や瞑想をおこなったり、いろいろな話を聞いたりして、わたしの心を落ち着かせようとします。イエスさまがこういった、ああいったと解釈し、偉い学者の先生がこういっている、教会がこう教えているといって信じ込もうとします。それで、落ち着けば信じた気になりますが、その心はころころ変わっていきます。決して確実なものにはなりません。わたしの心が安定しているときはいいですが、不安定なときは信仰もぐらぐらになってしまいます。これはわたしが心を取り作っていることであり、実はわたしが信仰と呼んでいるものの正体です。このような信仰が、わたしを救うはずがありません。救いという境界線を人間が引くと、わたしが信じるか信じないかが必要になってしまうのです。信仰とは、果たしてそのようなものなのでしょうか。

今日の福音でイエスさまがいわれたことは、救いというものは、人間がどれだけやったかという数の問題でも、やったやらなったという人間の行為の結果でもありませんよということなのです。もっとはっきりいえば、信じた信じなかったということが救いの結果でさえありませんということです。そもそも、イエスさまには救う救わないという区別はなく、救うということしかありません。だから、人間が信じたか信じなかったかということも関係ないということなのです。イエスさまが救うと仰っているのに、宗教が救う救わないという区別をすること自体、根本的に間違っていますよということなのです。イエスさまが宣べ伝えられた神の国は、場所とか死後の世界のことではなく、わたしたちの救われた救われないという境界をなくす働きであるということなのです。そのような境界を作り出しているのはイエスさまではなく、人間なのです。ですから、救われた側と救われない側の区別を作り出している人間の迷いから、人間を解放することがイエスさまの救い、神の国の働きなのです。それがぶどう園の主人のすべての人に1デナリオンを払うという姿に、現されているのです。「後のものが先になり、先のものが後になる」といわれていることも、人間の目で見たときに後先に見えるかもしれないけれど、それは救われる救われないの区別ではないのです。

わたしたちは、信仰や救いをわたしの心の問題として捉えがちです。しかし、信仰も救いもわたしの心の問題ではないのです。わたしの心の中で信仰が深くなったり、わたしが救われたと心で感じることではないのです。わたしたちは信仰というと、“わたしたちがイエスさまを信じること”のように思ってしまいますが、わたしたちがイエスさまを信じるのではなく、イエスさまがわたしたちを信じておられることをいうのです。イエスさまは、わたしを救うということについて何も疑いがないのです。わたしの心がどのような状況であろうと、イエスさまはわたしを救うということに何の疑いももたれないのです。それが、朝早くから働いても、午後5時から働いても等しく1デナリオンを支払うということで述べられていることなのです。イエスさまは、「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか」といわれます。わたしが誰を救おうとわたしの勝手だといわれるのです。

このイエスさまのわたしを救うという願いがすべての人に成就した出来事が、主の復活なのです。ですから、わたしたちが救われる証拠はわたしの心の中を探したところで見つかりません。わたしの心は疑いと迷いだらけです。救いの証拠は、わたしはあなたを救うといって復活して、わたしとともにおられる方以外にありません。救いは、わたしが自分の心で算段して、信じることではないのです。ただ、「わたしはあなたを救う」といわれたイエスさまに聞く以外にないのです。わたしたちが、どんなに自分で考えても、友達同士相談しても、信仰や救いが湧くはずがありません。「わたしはあなたを救う」というイエスさまに出会って、その声を聞く以外に方法はないのです。信仰というのは、「わたしはあなたを救う」といわれるイエスさまをお迎えすることなのです。お迎えするのはわたしの心かもしれませんが、来られるのはわたしを救うといって、わたしを信じておられるイエスさまです。そして、わたしたちが今というときに、イエスさまによって、わたしの身に信仰の出来事、救いの出来事が引き起こされていくのです。それが信仰であり、救いなのです。信仰と救いはわたしの身に起こりますが、わたしの業や働きによるものではありません。

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