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教会からのお知らせ

年間第30主日 勧めのことば

2023年10月29日 - サイト管理者

年間第30主日 福音朗読 マタイ22章34~40節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はキリスト教の中で2つの愛のおきてといわれる、神への愛と隣人愛についての箇所が朗読されます。その他にも黄金律という教えがあり、「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイ7:12)」というものです。これらは、イエスさまが教えたことのようにいわれていますが、いずれも旧約聖書の教えです。神への愛は申命記6章にあり、隣人愛はレビ記19章18節にあります。また黄金律はイエスさま自身も「これこそ律法と預言者である(同7:12)」といわれ、当時のユダヤ教でも律法を要約したものとして考えられていました。日本でも「人にされたくないことは、人にしてはいけない」と教えられています。今日の箇所で2つの愛のおきてを、イエスさまは「律法と預言者は、この2つのおきてに基づいている」といわれています。マルコ福音書にも同様の箇所がありますが、この2つのおきてについてそれを重要視することは、「神の国から遠くない」といわれました。遠くないということは、近くもないということで、神の国の教えであるとはいわれませんでした。それがどうして、イエスさまの教えであるかのようにして教えられてきたのでしょうか。

おそらくマタイ福音書が書かれる時点―イエスさまが亡くなってから半世紀も経っているのですが―、イエスさまの伝えようとした福音を新しい律法として解釈し、福音内容をその律法遵守である置き換えがおこなわれてしまったといってもよいかと思います。事実マタイは、イエスさまを律法の完成者として描いていきます。マタイの共同体には、ユダヤ人が多くいたことも関係していると思われます。イエスさまの宣べ伝える神の国の福音を、先祖から慣れ親しんできたモーセの律法を大切にしながら、イエスさまを救い主として信じることのほうがわかりやすかったのでしょう。宗教として、これこれのおきてを守りなさいと教えるほうが、今まで聞いたこともないようなまったく新しい神の国の教えや神の愛を説くよりも、はるかにわかりやすく簡単だったのだと思います。つまり、イエスさまの説く理解しがたい壮大な神の愛よりも、わたしたち人間が神を愛する、隣人を愛することを説くほうが簡単だということです。簡単だというのは、実践しやすいという意味ではなくて、人間の頭にはわかりやすいという意味です。なぜなら、人間が主語ですから、人間の頭で、人間の範疇で考えられるということです。しかし、神の愛となると主語は神さまですから、雲をつかむようで、わたしたち人間にはどのようなものかわかりません。神さまというのは人間の理解を超えておられます。ですから、イエスさまはその神さまの愛を人間に説くときに、それを神の国、神の支配といい、すべてたとえで話されました。

たとえで話すということは、人間のことばでは説明できないので、たとえで話すということです。それを、現代では宗教学的には神話といいます。神話というと、科学的に証明できない作り話、夢物語だというふうにとらえられるかもしれません。しかし、そのように考えるようになったのは、科学が発達して、実証できるものがすべてであると考え、特に科学的、歴史的に証明できないものはすべて真実ではないと考える近代主義の風潮が広まった19世紀頃からです。しかし、20世紀になって、神話とは人間の理性的な言語で表現し得ない、根源的な真理を語る言語であるという発見がされていきます。それで、知性で表現できない真理をお伽話ふうにいうのです。お伽話ふうにいうのは、そのようにいわないといえない深い真理があるという意味であって、そのことは作り話だとか、嘘だとか、事実でないとか、科学的根拠がないとかそういうことを問題にしているのではないのです。人間の世界のことなら、理屈でいえばわかります。聖書はそのような種類の話ではないのです。わたしたちの根源的な真理について解き明かそうとする書物なのです。たとえ、いのちの真実についていくら理屈で説明されても、科学的にDNAがどうのといわれても、そこに本当の救いも喜びも感じられません。しかし、人間のことばを超えたことばで話されるとき、わたしたちはやっと心動かされ、人間の闇という迷いから目覚めることができるのです。

それは、わたしが主語にならない世界、わたしが絶えた世界であるといえばいいかも知れません。わたしが神を愛する、わたしが隣人を愛するではなくて、神さまがわたしを無条件で愛しておられる、イエスさまが伝えたかったことはそれだけではないでしょうか。わたしたちはよいことをすればするほど、よいことを考えれば考えるほど、わたしは正しいとおもってしまいます。しかし、わたしは正しいとおもったとたんに、それは邪見となってしまいます。人間の考えるものはすべて正見とはいえません。わたしたちのものの見方は、どんなに学問がある人の見方でも、どんなに誠実な正しい人のものの見方でも、どんなに心優しい人のものの見方でも、皆自分を中心にしてものを見ている限り、それは正しいものの見方であるとはいえません。ですから、どれだけ頑張って神さまを愛そうと、どれだけ誠実に隣人を愛そうとも、それは神さまの愛に及ぶことなどあり得ないのです。イエスさまの説かれたのは、人知の及ぶことのない神さまの愛でした。その愛は、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために来た」といわれる愛です。その愛を、イエスさまはご自身の生き様で示されました。わたしがどのように神さまを愛するとか、わたしがどのように隣人を愛するとか、自分にしてほしいと思うことを人にするといった、自分を中心にした愛とイエスさまの生きられた愛は同じものではないのです。人間中心の現代人には、そのことを理解するのが難しくなってしまっています。

確かに旧約聖書の中にも神さまの愛の啓示があるのでしょうが、人間が理解したことは律法と預言者を中心とした人間側が律法を守ることで神さまと隣人への愛を実行することでした。いずれにしても、人間の次元のことが問題にされ続けてきました。それが、神さまへの愛か隣人愛のどちらが大切かというような議論になったり、祈りか活動かという議論にもなったりしてきました。これが、長年教会が陥ってしまった、すべてを人間の業に還元するという人間中心主義です。神への愛も隣人への愛も、所詮は人間が主語になっており、その是非を議論すること自体意味がないとはいいませんが、それは宗教ではなく道徳の問題です。そこで根本的に欠如しているのは、神さまのわたしへの愛です。神の愛は、わたしを無条件で平等に救う、わたしをゆるす、わたしを守る、わたしを助ける神さま、イエスさまのわたしへの働きすべてを指しています。その働きが神の国であり、神の働きであり、聖霊の働き、イエスさまの働きなのです。その神さまの働きなしにして、人間の何かがあるはずがありません。前提そのものが異なっているのです。そのことをパウロは「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました(ロマ5:8)」とか、ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださった(Ⅰヨハネ4:10)」というふうに表現しました。わたしたち人間が出発点にはなることではないのです。神の愛なしにはわたしたちは存在しえないのです。それがエフェソ書になると「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して…(1:4)」と深められていきます。愛は永遠ですから、愛する神も永遠、愛されるわたしたちも永遠であるということが暗にほのめかされていきます。愛は、愛するものと愛されるものがありますが、その本質は“いつ”です。愛の本質においては、愛し愛されるという区別さえもないということなのです。イエスさまは、このような大きないのちの世界、愛の世界をわたしたちに、神の国として示されたのです。そのようなものがわたしたちの頭でわかるはずがありません。だから、たとえで話され、神話という手法が使われていったのです。わたしが頭でわかり、納得してわたしが信じることが宗教ではないのです。わたしたちが触れることのできない神秘への感覚、それが宗教なのです。

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