年間第33主日 勧めのことば
2023年11月19日 - サイト管理者年間第33主日 福音朗読 マタイ25章14~30節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はよく知られたタラントンのたとえです。タラントンとはギリシャの貨幣の単位で、1タラントンは6000日分の日当にあたり、約20年分の賃金に相当します。このタラントンはタレントの語源にもなり、才能や技量を表す言葉になっていきます。つまり、その人が天からもらった力量を表す言葉にもなっていきます。今日のたとえは天の国、つまり神の国のたとえとなっていますが、何のたとえなのかを正確に理解する必要があると思います。
普通このたとえを読むと、神さまからいただいた力や能力を使うことを奨励しているとしか読めません。それが神の国の何のたとえなのかがわかりません。あたかも、神の国がわたしたちに正しい生き方を要求しているようにしか感じられません。たくさん資産をあずかって、それをうまく資産運用した人が評価され、それをしなかった人が責められているように思われます。頑張れば評価される、頑張ったものが報われる世界を目指している現代社会のように、才能を活かして頑張れといわれているようにしか読めないからです。政治家はいとも簡単に、人類は皆平等であると綺麗ごとをいいますが、人はみな同じように生まれついているわけではありません。人は人であることを除いて、生まれながらにして不平等なのです。頑張れる人はいいかも知れませんが、頑張れない人はどうしたらいいのでしょう。
今までの教会の教育の中でも、自分が自分でないものになることで救われるというような教え方がされてきました。よい子になって、立派なクリスチャンになって、聖人になることを目的としてきたような、そして、それがあたかも信仰生活、聖性のように言われてきました。だから、今のままの自分では駄目なんだ、罪を避けてもっといい子にならないといけないのだといわれてきたように思います。しかし、わたしたちは自分以外のものにはなれませんから、自分自身じゃないもののふりをするようになります。あるいは、ゆるしの秘跡と日常生活の間を行ったり来たりになり、絶えず罪に怯える生活が繰り返されます。こうして、わたしたちはわたしに対して嘘をつき、嘘に嘘を重ねることになります。でも、自分自身ではないもののふりをし続けること、これはストレスですから、わたしたちは心の中では自分を責め、自分を虐め、自分を否定するようになります。つまり自分で自分をおとしめ、卑下するようになるのです。そのように自分を虐めていると、その虐めは必ず他者に転化していきます。これが、外的、内的暴力となって現れてきます。自力で頑張って、聖人になることを目指す人はそれでいいかも知れませんが、そうできない人はどうしたらいいのでしょう。また、自分で頑張れる人は、そうでない人を責めがちです。これがあらゆるハラスメントと温床ともなっていきます。
ここでいうタラントンというのは、現在は才能とか技量を現わす言葉になっていますが、むしろそうではなく、唯一無二であるわたしという存在を意味していると捉えることができるのではないでしょうか。それで、ひとつの提案として、5タラントン、2タラントン、1タラントンというのを、五郎、二郎、一郎として読むということを勧めたいと思います。そうすると、五郎は五郎であることを生きた、二郎は二郎であることを生きた、一郎は一郎であるのに、五郎や二郎になろうとした、あるいは一郎であることを生きなかったというふうに読んでいくことができます。そうするとこのたとえ話の読み方も変わってきます。お互いに比べる必要がなくなるわけです。
仏教のことばで「人身受け難く、今すでに受く」というのがあります。わたしがわたしとして生まれてくるということは、この宇宙の歴史から見ればほぼ不可能なこと、奇跡に近いものがあります。わたしは、他の誰になるのでもなく、このわたしとして生まれさせていただきました。このわたしがこの世界に生まれてくるためには、様々な要素、縁がなければなりません。自分の両親はもとより、その祖先、またこの地域、この国、この自然界、空気も水も、空も太陽も、この地球も宇宙もその何かひとつでも欠けたとしたら、わたしが生まれてくることも、今あることはあり得ないのです。わたしは自分ひとりで生まれてきて、ひとりで大きくなって、この自分がいろんな状況をコントロールしてきたと思うかもしれません。しかし、わたしという存在は、わたしだけでは何もできない、この世に生まれることも、生きることも、また死ぬこともできないものなのです。その証拠に、わたしはわたしの力で、自分で息をすることも、心臓を動かすことも、血を全身に送ることも何もできないのです。
それなのに、わたしはわたし以外の世界を作り、わたしという殻を作ってわたし以外のものを拒否して、そのわたしの中に閉じこもっている、ひとりぼっちの世界に座り込んでいる、それが現実のわたしではないでしょうか。ひとりぼっちの世界に座り込んでいる、それがわたしであると思い込んでいる。わたしとわたし以外の世界を別に作り出し、その世界がわたしにとってどうであるかということしか関心がない、わたし以外は皆わたしにとって利用価値があるかどうかで世界を見ている、そのひとりぼっちのわたしがいる。このようにひとりぼっちの世界に座り込んでいること、これがわたしの迷いであり、そのようなわたしが救われたい、生きたいと願っているのではないでしょうか。そのようなわたしのところへ来て、わたしに働きかけて、わたしとともに歩み、わたしとともに救われていくことを願っておられる方がいる、それがイエスさまということなのではないでしょうか。その方が、わたしに真実のわたしであることを生きてほしいと願っておられる。そして、わたしの本当の願いは、何かが欲しいとか、○○さんのようになりたいということではなく、わたしは真実のわたしになりたいという願いなのです。それが今日の福音のテーマであると思います。
イエスさまが天地創造のまえから、このわたしを呼びだしてくださった、そしてわたしに働きかけ、わたしとともに歩んでおられる、そのことを改めてこころに留めたいと思います。