待降節第1主日 勧めのことば
2023年12月03日 - サイト管理者待降節第1主日 福音朗読 マルコ13章33~37節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
待降節になりました。今日の福音のテーマは、主の到来に向かって「目を覚ましている」といることがテーマになっています。待降節のテーマも、わたしたちが主を待つことのように思われています。今日の福音を読む限り、主がいつ来られるのかわからないので、わたしたちが細心の注意を払って、ふさわしく用意して、目を覚ましているというわたしたち人間の側の心構えが語られているように思います。そして、わたしが主の到来に対して、いつこられてもよいように目を覚まして、ふさわしい準備をすることで救われる、またわたしが一心に信じることで救われるかのように思ってしまっています。しかし果たして、わたしはイエスさまにふさわしい身になれるのか、またわたしが一心に信じるということができるのかということが問題になってきます。なぜならば、わたしが信じているその信仰が真実なものであると誰も証明してくれませんし、自分の力でイエスさまにふさわしい身になったかどうか確認することもできないからです。この問いの背景には、そもそもイエスさまの救いというものを、わたしたち人間が人間の視点で解釈しているのではないかということがあります。今日は、そのことを考えてみましょう。
わたしたちに“待つ”ということが成立するためには、未だ到着していないという過去の事実と、いつか将来に起こるであろう未来への予想というものがあります。それがどのようになっているかというと、過去に誰かが来たというわたしの経験があって、そのときたまたま準備ができていなくて怒られたとか、うまくいかなかったという記憶があって、その記憶に基づいて、今度はきちんとしようと未来の予想を立てる、あるいは、そのときうまく準備ができて、きちんとお迎えすることができたという経験があって、この次もきちんとお迎えしようと、“わたしが”考えているのではないかということです。つまり、わたしたちの意識が捉えることができる過去の記憶のデーターとそれに基づいた未来の予想で、この世界のすべてを、神さまのことさえ把握しようとしているのではないかということです。わたしのこころに思いが生じるというのは、過去の出来事に照らし合わせて、未来を判断しているのにすぎません。
わたしたちはこの世界に時間というものがあって、過去があって、現在があって、未来へと時間が流れていて、わたしはその時間の中で生きていると考えています。しかし、現代の物理学でわかってきていることは、人間は時間というものがあると思っているけれど、時間というものは存在しないということがいわれています。この世界には時間というものはなくて、時間は人間が世界を理解するために尺度、人間の申し合わせであって、この世界には永遠の今ということしかないということがいわれています。世界を時間の流れとして認識しているけれど、この世界には今ということが満ちているのだということなのです。ちょっと想像することは難しいかもしれませんが、よく考えれば、わたしが生きている今というとき、瞬間、その刹那は、わたしが生きたといったとき、もう過去になってしまい、その過去にわたしは生きてはいません。そして、わたしが生きようとする未来は絶えず未来であって、その未来にわたしが追いつくこともありません。しかし、わたしが生きているのは過ぎ去った過去でもなく、また来ていない未来でもなく、今、永遠の今であって、昨日でも、明日でもありません。わたしには今しかなくて、過去も未来もないし、それを生きることはできないのです。過去や未来は、ただ記憶と意識の世界が作り出している幻のようなものだのだといっていいかもしれません。イエスさまが永遠であるということは、イエスさまにはわたしたち人間のような時間はなく、常に今ということなのです。
わたしたちは、よく生きれば、将来よい人になっていき、よく信じれば、将来信仰は深まっていくというふうに考えています。だから、わたしたちがよい人間になって、ふさわしい準備ができれば、イエスさまが将来来てくださるというふうに、わたしが勝手に間違って捉えていくようになってしまいます。しかし、イエスさまは、わたしたちが目を覚ましていて、ふさわしい準備をした結果として来られるのではありません。それだけなら、わたしの都合で、イエスさまを来させようとしていることになってしまいます。また、今日のお話はいいお話だった、自分の生きる参考になったといいます。それは自分に都合よく聞いた、自分のこころに合わせて聞いたということにすぎないのです。また、わかりやすい話やわかりやすい言葉にするということもよくおこなわれています。わかりやすいということは、わたしの都合に合わせたものということなのです。イエスさまのことばをわたしの都合にあわせて聞いたところで、それは自分の都合を満たしたいだけ、自分の疑いを晴らし、欲を満たしたいだけなのです。だから、わたしたちは、聞けば聞くほど、信仰は深まっていくと思っているかもしれませんが、それは間違いです。聞けば聞くほど、わたしたちの疑いは深くなっていくのです。わたしがわかりたい、わたしの疑いを払拭したいという思いだけでイエスさまのことばを聞いているので、それは泥に金箔をはっているだけなのだということに気づかされるからです。
イエスさまが来られるのは、そのようなわたしの都合やわたしのまやかしのこころの及ばぬところです。イエスさまが来られたことを過去のこととして判断し、未来を予想するなら、それはわたしのこころの中で、わたしの意識が作り出したものになってしまいます。しかし、イエスさまが来られるというとき、わたしの意識が及ばぬところにイエスさまは来ておられるのです。そのことをわたしたちは、本質的には意識することはできないのです。「そのときがいつなのか、あなたがたにはわからないからである」といわれている通りです。イエスさまが来られるのは過ぎ去った過去のことでもなく、まだ来ていない未来のことでもないのです。その意味で、わたしたちが待つ必要はないのです。今、イエスさまは来られ、わたしたちは今救われつつあるのです。どんなに準備しようが、ふさわしく生きようが、準備ができず、ふさわしくなくても、それはわたしの都合でしかなく、そのようにしか生きられないわたしのところにイエスさまが、今来られるということなのです。わたしが待つことによって、準備することによってイエスさまの到来を引き起こすのではなく、すでにイエスさまは来ておられたのだという驚き、それがアドベント、「主が来られる」といわれる真の待降節の意味なのではないでしょうか。いつ来られるかわからないから絶えずわたしが準備をしますとか、クリスマス前にふさわしい準備をしましょうじゃないんです。それはいずれも自分の都合であって、わたしがよい人間になれば救われ、一生懸命信じれば信仰が深くなるなんていうのは、すべてわたしの計算であり、インチキです。しかし、イエスさまは、そのような自分の都合しか考えられないわたしのところに来られるのです。イエスさまが来られる、そのことだけが真実なのです。イエスさまは今来られ、わたしたちは今救われつつあるのです。