待降節第2主日 勧めのことば
2023年12月10日 - サイト管理者待降節第2主日 福音朗読 マルコ1章1~8節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
典礼暦年のB年が始まり、これからはマルコ福音書が読まれていきます。マルコ福音書は4つの福音書の中で、イエスさまの死後30年頃に最初に書かれたものであり、「神の子イエス・キリストの福音の初め」ということばで始まります。マタイやルカ福音書と違って、イエスさまの誕生や幼年物語について一切触れていません。福音書は、時系列でイエスさまの生涯が描かれ、伝記風に描かれていきます。読み手であるわたしたちは、福音書を通して、イエスさまの生涯について追っていくのだとわたしたちは思って読みます。しかし、福音書というものはひとつの文学様式であって、時系列の物語という形式をもちいながら、読者に必要なメッセージを伝えようとしているものなのです。文学にはいろいろなスタイルがあり、そこには著者の意図というものがあって、そのメッセージを伝えるために様々な文学様式が用いられます。詩、歌、物語、神話、伝記、歴史書、エッセイ、フィクション、ルポルタージュ等々もそうです。福音書というものも、ある時系列による物語、神話などのスタイルをもちいた文学なのだということを先ず押さえておく必要があります。大切なことは、わたしたちは著者の意図を、神のことばとしてきちんと受け取るということなのです。神のことばということは、著者は聖霊ということなのですが、その聖霊の意図というものがあるということです。
それでは、聖霊の意図は何かというと、マルコは「神の子イエス・キリストの福音」というふうに簡潔にその意図を要約しました。ここに書かれていることは、神の子であり救い主であるイエスという方が告げられた“よい知らせ”であるということになります。よく、聖書の中に書かれている様々な物語、例えばイエスさまの奇跡譚やたとえ話をそのまま実話として捉えて、そのまま信じることが大切なんだというようないい方がされることがあります。しかし、福音書はイエスさまの行動や語録の報告書ではありません。それを勘違いすると、福音書の字面を追うことになってしまい、イエスさまの意図とずれたものを受け取ってしまいかねません。マルコはそのようなことをできるだけ避けるために、イエスさまの出自や幼年物語、人となり等という、皆の興味があるようなことはほぼ省き、できるだけイエス・キリストによってもたらされたよい知らせを浮き彫りにするように努めました。ですから、おそらく当時皆が知っていたようなイエスさまの誕生物語や幼年物語にはあえて触れず、洗礼者ヨハネによって始まるイエスさまの宣教活動に直接入っていくのです。しかし、それであっても当時のマルコの生きていた時代の教会の状況、人々の関心事、時代の雰囲気や人々のものの考え方が反映されています。これが人間の言語活動の限界です。イエスさまによってもたらされたよい知らせを福音、その働きを神の国というのですが、それを人間のことばで言い表すこと自体不可能なのです。ですから、イエスさまはそれを主にたとえ話として語られました。つまり、神のことばを人間の言葉に翻訳して話されたということなのです。
洗礼者ヨハネの描き方も単純です。マタイはヨハネを、人々を救い主に備えるための、厳しく厳格な旧約の最後の預言者として描きます。ヨハネは民衆に「蝮の子等よ」と呼び掛けます。ルカに出てくるヨハネは、マリアの従姉エリザベットの息子として描きます。マルコはヨハネの出自についても、何も触れません。このように描き方は夫々です。マルコにとっては、イエスさまやヨハネの出自について関心がありませんでした。おそらくそれが真実でしょう。マルコ福音書では、マリアについても、偶然にイエスのことを「マリアの子」というイエスさまの出自を辱めるために使うために出てくるだけで、福音書において、また救いの歴史におけるマリアの役割に何も注目していません。このように、マルコ福音書の特徴は、イエスさまによってもたらされた福音、よい知らせ、救いが何であるかを明らかにすることでした。
それは、つまりイエスさまこそが福音であり、よい知らせであり、救いであり、いのちであるということに尽きるといえばいいと思います。それが、「神の子イエス・キリストの福音の初め」といわれていることであるいえるでしょう。マルコが関心のあったのは、イエスさまだけです。イエスさまがすべてであって、イエスさまがわたしのところへ来られることが即救いであるということなのです。イエスさまがわたしたちの救いのためにわたしのところに来られること、そしてそのイエスさまの働きである神の国以外のものは何も必要ではないのです。わたしたちはただ、そのイエスさまをお受けすることだけで十分なのです。わたしたちの業も、心構えも徳も必要ではないのです。もちろん何もしないでいいといっているのではありません。本質を見極めるということです。そのことを、わたしたちはB年のマルコ福音書を読むことによって深めていきたいと思います。