information

教会からのお知らせ

待降節第3主日 勧めのことば

2023年12月17日 - サイト管理者

待降節第3主日 福音朗読 ヨハネ1章6~28節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は洗礼者ヨハネの証しの箇所が読まれます。ヨハネは「証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」といわれています。そしてヨハネが証しする光は、「まことの光で、世に来てすべての人を照らす(1:9)」光です。このまことの光はイエスさまご自身をさしています。イエスさまがまことの光であるということは、どのような意味でまことの光なのでしょうか。今日は、それを見てみたいと思います。

 わたしたちは自分の目があるから光が見えると思っています。しかし、光がなかったら何ひとつ見ることはできません。それこそ、わたしたちは闇そのものになってしまいます。わたしたちは光に照らされているからものが見えるのです。どんなに強い視力があったとしても、光がなければものを見ることはできないのです。その光というのは太陽のような目に見える光ではなくて、光そのものであって、決して肉眼で見ることはできない光です。このような光は、眼がものを見ることを可能にする基礎、前提のようなものであるといったらいいでしょう。この光は、わたしたちが世界を認識するために不可欠なものなのです。ですから、わたしたちが光を見るのだと思っているかもしれませんが、そうではなく、わたしが見えることを可能にしているのが光なのだということなのです。まさに、創世記で「光あれ」といわれた光のことであって、それは太陽の光をさしているのではなく、すべてのことを可能にする根源的な光、いのちそのものともいえるような光なのです。そして、聖書の中で、イエスさまご自身はこのような光であるということが述べられているのです。

わたしたちは、わたし自身が聖書を読んで、信仰をもって、わたしが何かをしてイエスさまを探し求めていくのだというふうに考えていますが、そうではないのです。わたしがイエスさまを信じることによって、イエスさまがわたしを受け入れてくださるとか、愛してくださるとか、救ってくださるということではないのです。イエスさまは、わたしがイエスさまを探し求める前に、信じる前に、イエスさまはイエスさまであって、そのお名前の通り「あなたを救う」でいらっしゃって、「あなたは愛されて、ゆるされて、救われて、生かされているのだ、どうかそのことに気づいてくれ」といっておられるということなのです。わたしがイエスさまを信じるとか認めるとかに関わらず、イエスさまという光の中にわたしたちは今すでにいるのだという意味なのです。しかし、わたしたちはイエスさまの光の中に自分がいるのだということがなかなかわかりません。ある意味で当たり前となっているからです。わたしたちは、常に光の中にあるので、光によって照らされているということがわかりません。

わたしたちは闇というものに出会って、はじめて光のありがたさに気づかされます。わたしたちがイエスさまという光の中にいる、わたしたちはイエスさまに愛され、ゆるされ、救われている、イエスさまのいのちによって生かされているということを何度聞かされてもわからないのです。わたしは光の中にいながら、光であるイエスさまを探して、見つけ、信じようとしているのだともいえるでしょう。あるいは、光の中にいながら、わたしが光に対して背を向けているというか、わたしが眼を閉ざして、光を拒絶しているのだともいえるでしょう。このことを闇とか、無明、罪というふうにいっているのです。光そのものについて、わたしが自分の頭で考えてもわかるはずがありません。光の中にいるものが、光について考えることなどできないからです。しかし、一部の天才たちがそのあたり前にことに気づき、それを探求してきました。それが宗教であったり、科学であったりするのです。宗教も科学も、何か人間の研究や探求によって新しい事実を発見することのように思われていますが、そうではなく、すでにある古い真理を発見しているのに過ぎないのです。誰かが、光の中にいながらも闇となっているわたしたちに、光について証しをしていく必要があるのです。今日の洗礼者ヨハネはまさに、闇の中にいながらも、光について知って証しをするものなのだということができるでしょう。

この光であるイエスさまは、聖書の中では太陽のようなものとしてもたとえられています。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる(マタイ5:45)」 太陽はイスラエルの上にも、パレスチナの上にも同じように等しく昇ります。一方の人には昇って、他方の人には昇らないとか、いい人だけの上に昇って、悪い人の上には昇らないというようなことはありません。しかし、このような太陽の光であってさせも不完全なたとえに過ぎません。なぜなら、太陽の光は影を作り出す光だからです。イエスさまが光であるというとき、それはいかなる影をも作り出さない、明るさそのものの光をさしています。太陽の光は有限な光で、障がい物に当たれば光が吸収されてしまいます。しかし、イエスさまの光は太陽のような物質が発する有限な光ではなく、数量に限りがなく、始まることも終わることもなく、あらゆるものを通り抜け、自由自在で、透き通った、並びない無限の光です。自分が光を発しながらも、すべてのものを光に同化してしまうような、すべて光で覆い尽くし、影というようなものを一切作り出さず、一面光の海のような、あらゆる区別と境界を破壊する、無限無碍の光なのです。

イエスさまは、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来られ(12:46)」ました。イエスさまという光が、わたしたちを照らし続けていますが、その光にわたしたちは気がつきもせず、認めることも出来ません。ヨハネがいうように、イエスさまはわたしたちのうちにあって「知らないかた」としてとどまっておられるのです。わたしたちが認められないので、わたしたちにとって闇として体験されてしまいますが、それはイエスさまがおられない闇ではなく、イエスさまがおられることによって引き起こされる闇であるといえるかもしれません。しかしながら、わたしたちがいくら闇であるというふうに感じたとしても、イエスさまはまことの光としてわたしたちを絶え間なく、倦むことなく、照らし続けておられます。イエスさまという光が、「わたしはあなたを決して見捨てることがない」「わたしはあなたを必ず救う」という、わたしたちへの呼びかけとなって、倦むことなく絶えることない永遠の光としてわたしたちに届けられているのです。このことをわたしたちは主の降誕としてお祝いするのです。

*待降節第4主日の勧めのことばはありません。次回は主の降誕(日中のミサ)の勧めのことばとなります。
*また、聖家族の勧めのことばはお休みです。

お知らせに戻る

ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。