主の公現 勧めのことば
2024年01月07日 - サイト管理者主の公現 福音朗読 マタイ2章1~12節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は主の公現のお祝い日です。古代教会においては1月6日の新年に主の顕現(エピファニー)、つまりイエスさまのこの地上における現れを、主の降誕、主の公現、主の洗礼、カナでの婚礼での最初のしるしとして祝ってきました。これらの東方起源のエピファニーはキリストの誕生というより、キリストの到来、闇を照らす光の訪れとして祝われてきました。それが西方教会では、主の降誕、主の公現、主の洗礼の3つの祝日として祝われるようになりました。しかし、その中心にあるテーマは主の到来ということです。待降節(アドベント)のテーマも主を待つことではなくて、主の到来であることは先般指摘してきた通りです。つまり主が来る、主の到来という神さま側からの出来事を、人類として体験した出来事として待つこと、生まれること、現れることとして理解したということなのです。主の降誕も、主の公現も、主の洗礼もイエスさまの人類への到来という一点に集中しているのですが、それを人間に説明するときに、また人間が理解していく方便としていろいろの祝い日となっていったといえるでしょう。そういってしまうと、身もふたもないので、教会はそれをいろいろな祝日として祝ってきたということなのでしょう。
わたしたちにとって根本の祝日である主の復活も、主がわたしのところに来られ、いのちの諸相を示されたということ、いのちの実相を祝っているといえます。本当のいのち、永遠のいのちとはイエスさまご自身であって、わたしたち人間の個々のいのちは、その本当のいのちがあってはじめて可能であることが知らされます。そして、イエスさまという方を通していのちの実相が示されていくのです。そのいのちは元来無限無量のいのち、永遠のいのちそのものであって、わたしたちがいのちだと思っている有限のいのちは、本当のいのちを個人の小さい枠の中に閉じ込めたものに過ぎません。しかしながら、同じいのちの実相をもっています。但し、わたしたちは有限の形でしか、いのちというものを体験することができないのです。ですから、わたしのいのちが一番大切であると思いこんで、わたしのいのちに執着します。宗教というものは、わたしが一番大切で、生きたいと思っているわたしのいのちを健やかに保ち、永らえさせ、引き伸ばすものではありません。これは個々のいのちを軽視しているのではなく、わたしたちがいのちというものを体験できるのは、確かにこのわたしの個々のいのちを通してですが、わたしのいのちですべてが尽きるものではないということです。
わたしのいのちはあらゆるいのちとつながっており、そしてそのいのちは、大きな家族、大宇宙、大生命を構成しています。パウロがいうキリストのからだのようなイメージでしょうか。他者、他物なくしてわたしはあり得ませんが、わたしなくしても他もあり得ないという一見すると矛盾のようなことなのですが、そのような繋がりをお互いに生きているということなのです。そして、そのいのちは絶え間ない動きであり、ダイナミックな流れであり、絶え間ない自己脱出なのです。このいのちは自分を壊して、自分を出て行くことによって、自分となっていく、いのちとなってくという固有の特性をもっているのです。別の言葉でいえば、新陳代謝ともいえますし、死と再生、復活ともいえますし、動的平衡ともいえます。これはひとつの流れ、還流であって、見る方向によって生まれると見え、他の方向から見ると死ぬと見えます。生まれることと死ぬことは正反対で真逆のことと思われがちですが、そうではなく大きないのちの還流の中の流れの方向であるといえるでしょう。このいのちのダイナミズムを損ない、止めようとする動きが罪であったり、欲、執着であったりするのです。いのちは本来溢れ出ていくものなのです。そのいのちがわたしたちに現れた出来事がイエス・キリストです。しかし、この本来のいのちを知ることは、わたしたちにとって必ずしも快いことではないかもしれません。
そのイエス・キリストがわたしたちへ来るという動きが、主の降誕、主の公現、主の洗礼です。そのイエス・キリストがいのちとして本来の姿に戻る動きが、受難・死・復活なわけです。わたしたちの老病死ともいえます。これはいのちの本来の姿なのです。それをイエスさまは、ことばとしてわたしたちに現すために、ことばとなってこの世に来られました。そのことを、わたしたちは記念しているのです。イエスさまの受肉、生涯、受難、死、復活は、いのちの実相をわたしたちに見せているのです。イエスさまはひとりの人間として生きることで、いのちとしてもっともいのちらしい姿を示しました。イエスさまは、わたしたちにいのちであることを気づかせるために、人間の言葉となって、わたしたち人間となって、わたしたちの仲間になって、わたしとなって、わたしが理解できるものになられました。これはわたしたちがいのちの本当の願いに気づき、目覚めるためなのです。わたしたちはいのちですから、すでにいのちを生き、体験しているはずですが、このいのちが何であるかを説明することができません。いのちとは有機体のうちにみられるある一定期間の現象であるとか、DNAがどうのといっても、いのちはそういうことではないのです。むしろ、わたしたち人間にとっていのちは「死にたくない」という感覚において、端的に体験されているのではないでしょうか。いのちは生きたいという根本的な願いをもっているからです。しかし、生きたいといういのちの根本的な願いが何であるかをわたしたちは理解することができないのです。せいぜい、健康で長生きしたいとか、他のものを押しのけてでも生き残りたいとか、いのちを永らえさせることぐらいしか思いつきません。他のものを押しのけてでも生きたいという願いは自分勝手な願いですが、実は、その願いは永遠に生きたいといういのちの本来の願いを発見していく入り口にもなるのです。人間の罪というか煩悩の中に、いのちの願いがすでに内包されているのです。
イエスさまは御自らが人間となって、つまり罪と煩悩に迷うわたしとなって、このいのちを生きようとされているのです。このイエスさまのこの世界への現れを祝うことが主の公現、主の顕現、エピファニーです。降誕節は光のお祝いでもあります。この光はイエスさまであって、この迷いの闇に輝く光です。闇が闇を破ることはできません。闇を破るのは光です。この光が闇に届けられて、闇の中でこの光が輝いている(ヨハネ1:5)こと、これがわたしたちへの福音、神の国の始まりなのです。ですからわたしのなかで生きられているのはわたしのいのちではなく、イエスさまのいのちなのです。そのことをパウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラテア2:20)」といったのです。わたしが我が物顔をして生きているいのちは、“ああ、わたしのいのちではなく、イエスさまのいのちを生きさせて頂いていたのか”と気づくこと、これが回心であり、神の国なのです。そして、その証し人となるように、わたしたちは洗礼を受け、教会として呼ばれたのです。自分だけ助かってなんて、さもしい根性ではないのです。また、人助けをして、自分も助かろうというよこしまな根性でもないし、まして洗礼者を増やそうということでもないのです。このいのちの世界は、そのようにしか考えることができないわたしが破られるのですから、わたしの本性にとって必ずしも心地よいものではありません。しかし、どこまでいっても愚かな愚かなわたしが皆とともに救われていく世界が、確かにわたしたちに届けられていること、そのことへの気づきがこの降誕節の祝いなのです。