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教会からのお知らせ

年間第2主日 勧めのことば

2024年01月14日 - サイト管理者

年間第2主日 福音朗読 ヨハネ1章35~42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はヨハネ福音書に見る最初の弟子たちのお召しの箇所です。洗礼者ヨハネが2人の弟子にイエスさまを紹介します。そして、またそのうちのひとりアンデレが、兄弟のペトロをイエスさまに紹介します。そのようにして弟子の輪が広がっていきます。イエスさまの弟子たちというのはこのように広がっていったのかもしれません。マタイ、マルコでは、イエスさまがこれと思う人をお呼びになるというふうにイエスさまのイニシャティブを強調しますが、それに対してヨハネでは、人を通して働かれるイエスさまということが強調されているように思います。どちらが本当なのでしょうか。

教会の中には、幼児洗礼と成人洗礼というものがあります。幼児洗礼は本人の意志とは関係なく、両親や周りの人々の望みによって洗礼を授けられます。自分の意志に関係なく、イエスさまに繋がったというようにいわれます。それに対して、成人洗礼は自分から望んで、今日の福音に出てくる弟子たちのように、誰かの手引きでイエスさまに出会ったとか、「どこに泊まっておられるのですか」と自分からイエスさまを求めていったというようにいわれます。自分の意志で決断して、イエスさまを選んだのだといういい方がなされます。教会の中ではわりと幼児洗礼と成人洗礼を区別して、幼児洗礼の人たちは成人洗礼の人たちに、「あなたがたは教会や神さまのことをよくわかっていない」といったり、成人洗礼の人たちは幼児洗礼の人たちを「あなたたちは漠然と神さまを信じているだけで、イエスさまのことを知らない」といったりします。いずれも愚かなことだと思います。これは、時間の中に生きている人間のレベルでの話になっています。

今日の福音の中では、イエスさまは人と人との関わりを通してその人を呼んでおられます。洗礼者ヨハネの紹介であったり、自分の兄弟や友達に誘われたりしてイエスさまと出会っていきます。しかし、それは幼児洗礼であっても同じではないでしょうか。両親や周りの人を介してイエスさまに出会わせていただいたからです。結局、わたしたちは誰か人やものを介してしか、イエスさまと出会うことはできないのです。それを恵みというのではないでしょうか。別のいい方をすれば、イエスさまはこの世界のありとあらゆるもの、両親であったり、友人であったり、ものであったり、この大自然であったり、すべてのものを通してわたしをご自分と出会わせようとしておられるということなのです。なぜなら、わたしの中には、まことであるイエスさまと出会わせていただくようなものは何もないからです。ただ、イエスさまご自身がわたしと出会いたいと切に願っておられるということだけなのです。わたしが出会いたい出会いたくないかとか、またわたしがそれに相応しいか相応しくないかに一切関係なく、イエスさまはわたしに出会いたいと願っておられるということなのです。それでは、わたしが自分の力でイエスさまと出会えるかというと、たとえ自分が求めたとしても、いろいろな状況が揃わなければ何光年かかっても永遠に出会うことはできないのです。もし、わたしが自分の意志でイエスさまに「どこに泊まっておられるのですか」と問うのなら、それはわたしをしてイエスさまにそのように問わしめているのは、わたしではなくイエスさまご自身なのです。この全宇宙を総動員して、イエスさまはわたしと巡り合い、出会うようにしておられるからです。だから、成人洗礼であれ幼児洗礼であれ、関係ないのです。あなたは「何を求めているのか」という「求める」という心を起こさせるのは、わたしの中に何かがあるからでなく、求める何かがわたしをして求めさせているということに他ならないのです。そのことを、はっきりと押さえておきたいと思います。

最近教会の中で会議があって、以前のように参加者が個々の意見を発表し議論する形式ではなくて、同じテーブルに参加者がついて、お互いの話を聞き合う形式が取られたそうです。それで、他の人の話を聞くうちに自分の意見が変わっていくのを体験したということでした。そしてそのことを、これは聖霊の働きであると感想が書かれていました。人の話を聞いて、自分の考えや思いが変わっていくというのは、人間として当たり前のことではないでしょうか。聖霊の働きでも何でもありません。確かに他の人やいろいろなことから影響をうけて、自分が変えられていくというのは大きな意味では聖霊の働きといってもいいかもしれません。しかし、変わっていくというのがいのちの本来の姿です。変わることを拒否しているというなら、それは機械かロボットです。人もいのちです。人と出会って、話を聞いて変わらないというなら、それがおかしいのです。いのちは自ら変わっていくものなのです。

イエスさまはこの世界の、この宇宙のすべてのものを総動員して、わたしに呼び掛けておられるのです。それは、自分と出会ってほしい、本当の真実を知ってほしい、真実のいのちを生きてほしいというイエスさまが願っておられるからです。そのようなイエスさまと出会わせていただければ、当然というか自然に変わっていくものなのです。先ず自分がすべてだと思っていた己の頑なさ、愚かさが知らされるでしょう。そして、そのような愚かなわたしと出会い、わたしを必ず真実に目覚めさせようとしておられる方があることも知らされていきます。これが変わるということなのです。イエスさまに出会わせていただくということは、わたしが変えられていくということなのです。もちろん、わたしが変わったから、イエスさまと出会えるわけではありません。また、イエスさまと出会うことで、わたしの性格とか根性がよくなるとか、今より立派な人間になるとか、眼に見えて今までの自分の問題や課題がなくなってハッピーになるということではありません。イエスさまと出会うということは、わたしが今までこれがわたしの救いであると思って願っていたことが、根底からひっくり返されるということなのです。わたしが破られるということなのです。ですから、イエスさまと出会うことはハッピーになるということではありません。そうなると、その意味では福音とはいえないかもしれません。必ずしも、わたしにとって都合のいい話ではないからです。イエスさまと出会うということは、真実が知らされることであって、真実はわたしにとって都合のいいことではありません。ただ、その真実があまりにも大きく、わたしたちの言葉や思いをはるかに超えたものであることが知らされるので、わたしの小さな幸せや思いなどどうでもよくなるということなのです。これがイエスさまと出会わせていただくということなのです。しかし、この出会いは第一歩であり、あくまでも入り口に立ったのに過ぎません。わたしたちは生涯、このイエスさまに聞き続けなければならないのです。実は、それが一番難しいことなのです。

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