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教会からのお知らせ

年間第3主日 勧めのことば

2024年01月21日 - サイト管理者

年間第3主日 福音朗読 マルコ1章14~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はマルコ福音書における最初の弟子のお召しの箇所です。今日の福音ではヨハネの箇所と違い、イエスさまが直接に声を掛けておられます。その特徴は、その人を見て声を掛けるということです。イエスさまは弟子たちに声を掛ける前に、すでにその人を見ておられるということなのです。これはイエスさまが、その人が自分の弟子にふさわしいかどうかをじっくり見定めて、その上で声を掛けられたという意味ではありません。イエスさまとの出会いはすべて縁であり、いわばタイミングがあるということなのです。すべてにタイミングがあるように、イエスさまとの出会いも縁なのです。イエスさまの願いはわたしを呼び、わたしと出会うことです。そのために、イエスさまはわたしを見ておられたのだといえるでしょう。しかし、この宇宙の歴史のなかで、わたしたちがどのようにイエスさまと出会うかは、イエスさまだけがご存じです。イエスさまは永遠のうちにそのタイミングを計っておられるのだといえばいいでしょう。

138億年の宇宙の歴史のなかで、わたしがイエスさまと出会うことができるというのはほぼ奇跡に等しいことなのです。なぜなら、この宇宙の歴史のなかの芥子粒ひとつともいえる一点一ヶ所に生まれたわたしが、イエスさまと出会うことができるかどうかは、わたしの力ではまったく不可能なことだからです。この宇宙の歴史の何かで、ひとつでもかけていたり、違っていたりすればわたしというものは存在していません。それにわたしたちは今生きているこのとき、その場でしかイエスさまと出会うことはできません。イエスさまは大宇宙そのものでいらっしゃいますから、その意味でわたしと出会うためにタイミングを計っておられる、その意味でわたしを見ておられるといえるでしょう。そのイエスさまの眼差しは永遠の眼差しであって、パウロが「天地創造の前に、わたしを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになった(エフェソ1:4)」という、その眼差しであるということがわかります。

わたしたちは召命というと、すぐに司祭・修道者になることだとか、結婚生活、独身生活だなどと考えますが、わたしの召命は先ずわたしをいのちとして、人間としてこの世界に呼び出すことなのです。そして、わたしたちが本当のいのちとなる、人間となるということです。これを第1召命、根本召命といいましょう。そして、そのことをわたしたちに気づかせるためにイエスさまと出会わせる、すなわちわたしをキリスト者と呼ばれるということ、これを第2の召命といえるでしょう。そして、キリスト者としてどのようにいのちの証し人となるかということ、それが夫々の生き方にあたるのですが、これを第3の召命といえるでしょう。ですから、わたしたちにとってもっとも根本的なのは、第1召命であるいのちとなる、人間となるということだといってもいいと思います。カトリック信者としてどうするとか、教会としてどうするというのは、すべて根本召命を生きるため、その使命を果たすためのものなのです。司祭・修道者また信徒として生きるということは、根本召命を生きるためであって、その身分自体が目的とはなりません。ときどきそれを目的にしている人がいますが、それは勘違いであるといったらいいでしょう。第3召命は手段、方便といってもいいもので、その身分にしがみつくものではありません。そのためには、いのちの召命が何であるかを知ること、それがすべてであるといったらいいと思います。それに気づかせ、示されたのがイエスさまということになります。イエスさまを見るときに、そこにいのちが何であるかを知ることができます。イエスさまを見るときに、そこに人間が何であるかを知ることができます。

真如であるイエスさまが、ことばとなって、人間となって、わたしたちの世界に来られたのは、先般のパウロのことばを使うと、わたしたちを愛して、聖なる者、汚れのない者とするためでした。聖なる者、汚れのない者とするということは、わたしたちを特別なもの、救われたものとするという意味ではありません。また、わたしたちの罪をゆるして天国に迎え入れるというような、わたしたちが普通に考えている自分勝手な救いのためではありません。聖なる者、汚れのない者というのは、本来のいのちに目覚めたものを意味しています。本来のいのちに目覚めるといっても、頭で理解することではありません。むしろ、イエスさまの生涯によって示されたいのちの本来の流れに、己をまかせることであるといえばいいかもしれません。まかせるというと、わたしに手を差し出されているイエスさまの手を握るというイメージをもつかもしれませんが、むしろイエスさまがわたしをつかんでくださることだといえばいいかもしれません。イエスさまが手を出してこられて、それをこちらから手を握るということだと、イエスさまは決して手を離されることはありませんが、わたしたちが手を離してしまうことがあります。猿の赤ちゃんはお母さん猿のお腹にしがみついて運ばれていきますが、猫の赤ちゃんは親猫が子猫の首根っこをくわえて運ばれていきます。子猫は何もしなくても、お母さん猫がしっかりくわえていますから、落ちる心配はありません。しかし、子猿はしがみつく力が弱かったりすると落ちてしまうかもしれません。この子猫の姿こそ、イエスさまに己をまかせるものの姿です。聖なるもの、汚れのないものというのは、自力で聖なるものになろう、汚れないものになろうとするのではなく、大いなるいのちに自分を完全にまかせたもののことなのです。

わたしたちは新幹線に乗ったら、この新幹線は無事に東京駅に着くだろうかなどと心配しません。この新幹線はかならず東京駅に着くと知っていますし、信じています。だから新幹線に乗った人は、平気で居眠りをしたり、おしゃべりを楽しんだりしています。運転手の心配をしている人は誰もいません。しかし、わたしたちの信仰心というものは、新幹線に乗りながらも、東京に着くかどうか不安なので新幹線の中で歩いたり、走ったりしているようなものではないでしょうか。わたしたちが祈るということは、イエスさまに必死にお願いすることだと思っている人が多いかもしれません。そうではなく、祈るとは、運転している人の“意”に“乗る”ことだといったらいいでしょう。つまり、イエスさまの意志、イエスさまの思い、イエスさまの願いに乗ることだといえばいいでしょう。イエスさまこそ、救いの大船です。イエスさまはわたしを救うと誓われた方、神さまなのです。そのことばが違えることは決してありません。だから、イエスさまにくどくどと祈る必要などないのです。イエスさまの意に乗ればいいのですから、本当の祈りというものを知ると、祈りは義務だとか決まった言葉や決まった時間にしなければならないものではなくなっていきます。このことを頭で分かるとか、意識するのではなく、自然とそうなるということだといえばよいと思います。もちろん、そのためにわたしたちの側からの協力は必要ですが、イエスさまの意に乗る、もっと正確にいえば、祈りはイエスさまの意に乗せていただくことなのだといえるでしょう。わたしたちをイエスさまの意に乗せてくださるのも、実はわたしではなくイエスさまです。イエスさまとの関わりも、このようになるところまでわたしたちは呼ばれているのです。今日のみことばを通して、祈りについて改めて深めてみてはどうでしょうか。

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