年間第4主日 勧めのことば
2024年01月28日 - サイト管理者年間第4主日 福音朗読 マルコ1章21~28節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、イエスさまの権威ある新しい教えが述べられる箇所です。しかし、朗読個所の中にはイエスさまのどのような教えが、新しい権威ある教えとして教えられたのか述べられていません。ただ、イエスさまの権威を証明するかのように、悪霊追放の出来事が述べられています。当時のユダヤ教の宗教生活は、年に数回あるエルサレムの神殿詣でと、安息日である毎土曜日の地域の会堂で行われる礼拝に参加することでした。年数回の神殿詣ではわたしたちの感覚でいうと、本山詣でのようなもので、そこで生け贄を捧げることが普通でした。毎土曜日の安息日の礼拝では、律法の書や預言書が朗読され、詩編の歌があり、説教や律法の解釈を聞くことが通例でした。そこで活躍したのが律法学者たちでした。
当時の宗教観は、今もそうかもしれませんが、神さまを熱心に信仰すればするほど、神さまに嘉せられると考えられていました。神さまを熱心に信仰することは、律法、掟を守って生活することで、律法をよく守る人には恵みが与えられ、守らない人は罰せられると考えられていました。若死や病気、天災や飢饉などの災いは神さまからの罰で、それは律法を守らなかったことへの報いであると単純に教えられてきました。今ではキリスト教ではそのように教えられてはいませんが、それでも勧善懲悪の神さまというのは普通の人間にとってわかりやすい説明であったといえるでしょう。つい最近までキリスト教の教会の教えもそのようなものではなかったでしょうか。教えを守り、礼拝に参加し、教会活動に熱心に参加し、慈善の業や社会活動に参加することが信仰深い信徒の姿とされてきました。ユダヤ教においては、神さまの教えを守るために、掟、律法がどのようなもので、毎日の生活の中でどのようなことをしなければならないか、もしくはしてはならないのかが細かく決められていました。律法そのものは何百年も前に神さまが民にお与えになったものですから、社会や文化の変遷と共に「再解釈」される必要がでてきました。その解釈をし、人々に教えていたのが律法学者たちであったということです。
このように、人々は恵みと罰という考え方が前提で、そのように教えられていましたから、その延長線上で神さまの教えを生きようとしていたということなのです。しかし、実はそのような教えが人を救うということはないのです。なぜなら、神さまに嘉せられ、自分が救われるため、よい信者として生きることを目的にした時点で、そのような宗教は出発点がすでにずれているからです。イエスさまの教えに人々は非常に驚いたと書かれています。それは律法学者のようにではなく、権威あるものとして教えられたからだとあります。イエスさまの教えは、あれやこれやの難しい教義や律法の細かい解釈ではありませんでした。イエスさまの口から出てきたのは生きたことばであって、人々を生かし、そのことばが人々を動かすような、あたかもことばが真実となるような内側から湧き出る力強いことばであっということでしょう。その証拠に、イエスさまのことばは悪霊を追い出すほどの力がある、真実のことばでした。「出て行け」といわれると、悪霊は出て行ったのです。わたしたちもことばを使いますが、わたしたちのことばは真実味がなく、真実との間に乖離があります。わたしたちが「出て行け」といっても、悪霊は出て行きません。イエスさまのことばは、イエスさまご自身の実在とことばの間に乖離がないものであったということです。
日本では、このように生きたことばをもっている人をまことの人という意味で、命と書いて「みこと」と読ませてきました。日本の神話に出てくる神さまたちです。ですから、イエスさまは“イエスの命(みこと)”であるといえばイメージできるかもしれません。イエスさまのことばはそのまま、事実、出来事になるのです。そのようなことばは、日本では言霊といわれてきました。ことばと世界の間に齟齬がない有様、それが真実であるといえるのではないでしょうか。それこそが生きた内なる権威の源であるといえるでしょう。イエスさまご自身が生きたことば、真実そのものでいらっしゃいましたので、そこには何ものにも奪われることのない尊厳、威厳がありました。なぜならばイエスさまご自身が真実であり、本当に尊いものであるからです。尊と書いて「みこと」とも読ませています。ですから、そのイエスさまの権威というものは、何ものによっても奪われることがありません。わたしたちの借り物の偽りの権威などは、あっけなく崩れてしまいます。
律法学者やファリサイ人といった借り物、偽り物の権威が跋扈(ばっこ)するユダヤ教のなかに、イエスさまが登場されたのです。そして、イエスさまは当時当たり前となっていた当時のユダヤ人たちの信仰観、宗教的な権威、ユダヤ教のあり方に対して根本的な意義申し立てをしていかれたのです。神さまに嘉せられ、神さまから恵みを受けることを目的としている宗教であれば、それは宗教ではない、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか(5:46)」ということです。これはキリスト教でも同じことがいえると思います。わたしたちは、カトリック教会という教えや制度を信じているのではないのです。イエス・キリストといわれる方とわたしが出会うというその一点から始まったのがキリスト教なのです。なんとなく神さまを信じて、よい人間になって、よい活動をして、貧しい人に寄り添っていくのが信仰者のあり方で、教会は地域に開かれ、ボランティアや社会活動をしている、確かにそれでもいいのかもしれません。しかし、そこに生きたイエスさまとの交わりがあるでしょうか。そこではキリストは2千年前にパレスティナ地方に現れた偉大な人物で、彼はいつも貧しい人や弱い立場の人と連帯して、その教えを述べ伝えた。そして、そのような素晴らしい教えが2千年間受け継がれ、その教えを実践しようとする人たちが教会であるということでもよいのかもしれません。しかしそこには、今わたしたちとともに生き、働き続けておられるイエスさまとの生き生きとした人格的な交わりがあるといえるのでしょうか。そして、わたしたちの素晴らしい生き方を助けてくださるのが聖霊で、聖霊は当然教会を助けてくださると考えているとしたら、それは果たしてどうなんでしょうか。
人々が出会って感動したのは、イエスさまの素晴らしい説教や困った人を助けるという教えではないのです。人々が出会ったのは、このわたしを探し求め、わたしと出会うことを切に望まれているイエスさまであったということなのです。その教えが素晴らしいとか、活動が素晴らしいということではないのです。もちろん教えが素晴らしく、活動も素晴らしいものだったでしょう。しかし、人々が出会ったのは、教えとか活動ではなくて、わたしに関わってくださるイエスさまだったのです。それは2千年経っても同じことではないでしょうか。確かに、そのイエスさまを表現するといろいろな教えや倫理が出てくるでしょう。でも教えや倫理を説く前に、わたしを探し求め、わたしと出会いたいと切に願っておられるイエスさまがおられるということなのです。教えや倫理があって、活動があって、それが素晴らしいから創始者であるイエスさまにひかれたでかまいません。自分もそうしたいというのでもいいでしょうが、素晴らしいとか、ひかれてそうしたいと思っているのは、結局はわたしがそうしたいのであって、それはイエスさまではないのです。出発点がずれています。そこを間違えないようにしたいものです。