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教会からのお知らせ

四旬節第2主日 勧めのことば

2024年02月25日 - サイト管理者

四旬節第2主日 福音朗読 マルコ9章2~10節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのご変容の箇所が朗読されました。その中に出てくるのは、栄光に輝くイエスさまの姿と弟子たちの無理解、不信仰という問題です。その背景を理解するために、少し前からお話ししたいと思います。変容の箇所の前、フィリッポ・カイザリアで、イエスさまが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だというのか」と問う場面があります。それに対して、ペトロは「あなたは、メシアです」と華々しく信仰告白をしました。その直後から、イエスさまは自分のエルサレムでの最期について教え始められたとあります。イエスさまは、自分がエルサレムで、長老、祭司長、律法学者から排斥され、殺され、3日目に復活すると、はっきりとお教えになったと書かれています。弟子たちはイエスさまが何をいっておられるのかわかりませんでした。

当時のユダヤ教の世界でメシアといえば、ローマ帝国の支配からイスラエルの民を解放し、ダビドのような王国を再興してくれる、政治的にも宗教的にリーダーシップのある人物を指していました。それなのにエルサレムで排斥され、殺されるということは、失敗、挫折であり、リーダーシップの無力さを露呈する以外の何ものでもありませんでした。そのことを、イエスさまは弟子たちに堂々とお教えになったわけですから、弟子たちの驚きというか、混乱は計り知れないものがあったのでしょう。それで、これはいけないと思った弟子たちのリーダー格のペトロは、イエスさまをわきにお連れしていさめ始めたとあります。それに対して、イエスさまは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、ペトロを厳しく叱られます。そして、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救うのである」と教えられました。

わたしたちが一番大切にしているものは何かというと、結局は自分のいのちです。わたしたちは、自分のいのちが一番大切ですから、自分のいのちを何としてでも救おうとします。これは当たり前のことです。わたしたちの日々の心配は、いかに自分のいのちを保つか、一日でも長く、健康で長生きするかということで明け暮れているわけです。それに対して、イエスさまは、わたしたちが本当の意味で自分のいのちを救うこと、また本当の意味でイエスさまのために働くこと、福音のために奉仕するということは、自分のいのちを失うことであると教えられたのです。弟子たちには、まったく理解を超えた教えであったでしょう。それは、わたしたちであっても、本音ではないでしょうか。そして、その直後にイエスさまの変容の話が続くわけです。そこでは、栄光に輝く王であるメシアの姿が顕現されます。弟子たちからみたら、これこそイエスさまが勝利を得られた姿であり、本物の成功したメシアの姿であったわけです。それも旧約の太祖であるモーセと、預言者の代表であるエリヤを従えています。これは右大臣と左大臣を従えた、典型的な栄光の王、メシアの姿です。弟子たちは再び舞い上がってしまいます。「ここにいることは素晴らしいことです…」と感極まっていうわけです。その感動冷めやらぬなか、山を下りていくとき、イエスさまは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを話してはいけない」と弟子たちを戒められます。そこで、弟子たちは再びわからなくなってしまい、死者の中から復活するとはどういうことかを議論し始めます。あとの部分は省かれていますが、弟子たちはイエスさまに「死者の中から復活するとはどういうことですか」と直接に聞くことができないので、話をずらして「なぜ、律法学者は先ずエリヤが来るはずだといっているのですか」と遠慮気味に尋ねています。イエスさまと弟子たちはどこまでも平行線が続きます。

弟子たちは人間というものを、その人が華々しく成功し、勝利をおさめ、栄光に輝いている姿こそが素晴らしく、いのちが輝いていると考えているわけです。ですからいのちの輝きというものは、イエスさまとそれに連なる自分たちが、エルサレムでローマ帝国の支配を駆逐し覇権を掌握して、イエスさまがメシアとして頂点に君臨して、イスラエルの民を再興することでした。いわゆる革命です。しかし、それはローマ帝国から見たらテロ活動でしかありません。実際、エルサレムに向かう弟子たちは武装していたようです。弟子たちは力で勝ち取ったいのちが、本当のいのちであると考えていたということになります。つまり、自分たちのいのちを最大限に拡大したものがいのちの本来の姿、いのちの輝き、栄光の姿であると思っていたということになります。そのような弟子たちにイエスさまは、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救うのである」と教えられたということなのです。弟子たちとは真逆のことを教えられたのです。弟子たちはわかるはずがありませんし、受け入れることも出来ません。

イエスさまはご自分のいのちについて、別の箇所で自分は「多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために来た」とお教えになりました。ここでいわれる自分のいのちとは、イエスさま個人のいのちのことではなく、小さなエゴを捨てて大きないのちにまかせて生きているイエスさまのいのちのことを指しています。自分がすべてのいのちだと思ってそれにしがみついているわたしたちに、自分の小さな身体的ないのちに執着するのをやめれば、死んでも死なないいのちに生きることになるといわれたのです。多くの人はこれをイエスさまの自己犠牲の教えであるとか、キリスト教の特徴的な愛であるといいますが、実はこれこそがいのちのもっている本来の姿なのです。すべてのいのちは生きようとしますが、生きるために、自分のいのちを出て行こうとするということなのです。人間以外のいのちは、そのようにいのちを生きています。確かに、自分のためのいのちを保とうとして、いのちを自分の中に取り込もうとしますが、同時に、自分のいのちを他のいのちに与えていこうとします。これを、わたしたちは自然界の食物連鎖と呼んでいます。いのちを自分のものだといって握りしめているのは人間だけなのです。他の動植物は、自分のいのちを守るために他のいのちを捕食しますが、また他のいのちの食料、餌食になることによって、自分のいのちを与えていきます。動物でも植物でも、自分の死を通して、他のいのちを養っているのです。いのちの本来の姿は、生きようとすることですが、すべてのいのちはいったんわたしという個体の輪郭をとりますが、その個体の輪郭、わたしという枠を脱出していくことによって、いのちを生きているということなのです。そのもっとも典型的な現象が死ぬということです。いのちは死ぬことによって、真のいのちとなっていくのです。これが、イエスさまが、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救うのである」と教えられたことです。イエスさまはいのちの本来の姿を示されたのです。

真のいのちといいますが、いのちに本当のいのちと偽物のいのちがあるという意味ではありません。生きられているのはすべて同じいのちです。しかし、いのちがいのちであるためには、わたしという身を通らなければならないということなのです。ですから、この身を通して、わたしたちはいのちの実相について知らせていただくのですが、同時にわたしのこの身がいのちの生きる場であり、救いの場であるということをも知らせていただいているということです。死んでしまえば、それがいのちであることに気づくことさえできません。ですから、生かされている今こそ、救いのとき、恵みのとき(Ⅱコリ6:2)なのです。わたしたちは、今、愛する子に聞くように呼びかけられています。わたしたちは、今、聞かないならいつ聞くというのでしょうか。

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