復活の主日・復活の聖なる徹夜祭 勧めのことば
2024年03月30日 - サイト管理者復活の主日・復活の聖なる徹夜祭 マルコ16章1~7節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今年の復活徹夜祭では、マルコ福音書が読まれます。マルコ福音書は、今日読まれる16章8節で終わっています。結びの部分は後代の加筆、補遺であるといわれています。8節は次のような言葉となっています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。
最初に書かれた福音書であるマルコは、空の墓の物語で終わっています。つまり、マルコ福音書には、イエスさまと弟子たちの再会については何も書いていないことになります。しかし、天使は婦人たちに「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる…そこでお目にかかれる」といい、ガリラヤでイエスさまと出会えると告げました。弟子たちがガリラヤでイエスさまと再会したかどうか、何も書かれていません。ただ、天使は、ガリラヤであの方と出会えるといったのです。そのガリラヤとは何でしょうか。それは、弟子たちが、イエスさまから呼びかけを聞き、イエスさまと出会い、イエスさまとともに生きたガリラヤ、そしてエルサレムへ向かうことを決意されたガリラヤです。そのガリラヤの日々の生活の中で、イエスさまと出会えると天使はいったのです。別のいい方をすれば、あなたがたの今の日常の生活の中で、あなたのガリラヤでイエスさまと出会える、そこにイエスさまがおられるということがいわれているのではないでしょうか。わたしたちの人生にイエスさまがおられる、わたしたちはイエスさまの光に包まれているということだと思います。
そもそも、人類の歴史が始まって以来、人間の生老病死は、人間にとって最大の謎でした。どれだけ科学や医学が進歩したとしても、人間の生老病死という現実をなくすことはおろか、コントールすることさえできません。ある程度、長くしたり、苦しみをやわらげたりすることはできるでしょう。しかし、人間の力ではどうすることもできないのが現実です。仏典の中に、「人、愛欲の中にありて、独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る。身みずから之れを当(う)くるに、代わる者あることなし」と述べ、人はひとり残らず、生まれてくるのも独り、死ぬときも独り、わたしはその身を引き受けていくしかない、その現実を誰も代わってもらうことはできないと述べています。実際、イエスさまが十字架の上で人類の罪を引き受けて、死なれ、復活された日も、その翌日も、同じように日が昇り、人々の苦しみが取り去られるということはありませんでした。また、生老病死という現実がなくなるということもありませんでした。
イエスさまの復活は、この人間の世界から生老病死をなくすことではありませんでした。そうではなく、人間が生まれ、老い、病み、死んでいくことが、人間として生きることそのものであるということを、イエスさまご自身が人間として生き切って、わたしたちにいのちの実相、いのちの真実を見せてくださったということではないでしょうか。復活のいのち、永遠のいのちというものは、わたしたちがもはや老いることも、病むことも、死ぬこともなくなるとか、来世での不老不死のいのちだとか、天国のいのちのことではありません。そこを、教会は間違って教えてきたように思います。人間は生まれ、老い、病んで、死んでいく、そのことそのものがいのちの営みであり、真実である。その現実の中に神のいのちが宿っているというか、わたしたちは大きないのちの真実の中に生きている。生をもはや苦として、謎として捉えるのではなく、その現実をそのまま引き受け、生きていくことができるようになる、それが復活されたイエスさまと出会わせていただくということであり、それは同時に、わたしたちがすでに永遠のいのちの中にあるということを知らせていただくということではないでしょうか。
イエスさまが、「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」といわれたとき、自分の生老病死で悩み、そのことに囚われている人間たちに、いのちであることを生き切っていくことを大自然に学びなさいといわれたのではないでしょうか。天国行きを目標にして、びくびくし、犠牲をし、掟を守ってちまちまと生きるのではなく、空の鳥のように、野の花のように、生き生きとのびやかにいのちを生きなさい。与えられているいのちを生き切りなさいといわれたのだと思います。
生きとし生けるものは、大きな神のいのちの計らいの内にあり、そのいのちを生きている。それなのに、どうしてあなたがたは、そのいのちを自分のいのちであるかのように握りしめ、苦悩するのか。いのちを自分のものとして握りしめること、これこそが人間の苦しみ、迷い、闇であり、そこからありとあらゆる欲と怒り、無知、罪が出てくるのです。イエスさまは人間としてのいのちを生き切ることで、この人間の我への捕らわれ(我執)を、ご自分の愛をもって打ち砕き、わたしたちにもっと広い世界、大きないいのちの世界を垣間見させてくださいました。自らに十字架を引き寄せるということで、自分というものを打ち砕いて、自分というものから脱出していかれた、過ぎ越していかれたのです。これが主の過ぎ越しです。ある人の「生のみが我らにあらず。死もまた我らなり」ということばを思い出します。死んでも復活のいのちがあるという間違った教えではなく、また死ななくなるのが永遠のいのちであるというのでもなく、死と生を対立さている二元論的な人間の分別の世界を越えて、わたしたちの生も死もすべて、大いなるいのちに包まれてあることに目ざめさせていただくこと、それが復活されたイエスさまに出会うということなのです。そのときわたしたちは、すでにすべてが永遠のいのち、大いなるいのちに飲み込まれていることに気づかされるでしょう。
この地球に生命体が誕生して38億年といわれます。その長い長い、気の遠くなるような生命の歴史の中で、生きとし生けるものはその生命をつないできました。この脈々と続く生命の営みの中で、この生命を生み出した真の光を、永遠の光をわたしたちは永遠のいのちというのでしょう。そして、この生命の歴史の中で、人間だけが、自分が大いなるいのちで生かされていることを知ることができるのです。わたしたちが生きていると思っているちっぽけな生命は、わたしたち生命体がこの宇宙に誕生するはるか昔より、すでに永遠のいのち、永遠の光に包まれてあることを、今一度、気づかせていただきたいと思います。宗教はその真実に気づかされるためにあるのです。自分の小さな宗派の中に閉じこもるためではありません。