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教会からのお知らせ

キリストの聖体 勧めのことば

2024年06月02日 - サイト管理者

キリストの聖体 福音朗読 マルコ14章12~16、22~26節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまが弟子たちと過ぎ越しの食事をされる箇所が読まれていきます。イエスさまが人生の最後に、自分の人生を象徴的にあらわすものとして、“食べるということ”を、わたしたちに感謝の祭儀を残してくださったことを記念するのがキリストの聖体の祝日です。それで先ず、イエスさまが自分の人生をあらわすものとして食事、ある意味人間にとって、またすべての生命体にとってもっとも基本的な食べるという行為に着目してみたいと思います。

食べるという行為は、すべての生命体にとってもっとも根本的な行為です。すべての生命体は、他からいのちをもらって、自分のいのちを繋いでいます。わたしたちは普段はほとんど意識していないかもしれませんが、“食べる”ということは、ほとんどが「生きる」ということと同義語であるといってもいいわけです。スーパーで売られているものはすべて処理をされパックされていますが、実際にはわれわれは何かを殺して食べているわけです。もちろん、ヴェジタリアンの人がいて、動物は食べないといっても、食べている植物もまた生物であることには変わりがありません。食べるという行為は、このいのちの「殺戮」ということそのものでもあるわけです。何をどういおうと、われわれは生き物を食べ、そのかぎりでそれを殺しているといえるでしょう。戦争をするのも、争いをするのも、究極的には食料を確保することに繋がっているのです。

宮沢賢治はこの食物連鎖という問題を「よだかの星」という小説で取り上げています。わたしは小学生のとき、国語の副読本として「よだかの星」を読み、強烈な印象を受けたのを思い出します。よだかは醜い鳥で、皆から嫌われています。そして、自分はいろいろな虫を食べて殺生をする、誰からも顧みられず、どのようにしても救われがたい我が身というものに気づいたとき、よだかはどこか遠いところへいってしまおう、つまり自分が死ねばよいのだという思いつめ、泣きながら空の彼方へと昇っていきます。そして、昇って昇って、最期に静かに燃える青い星となったという物語です。その後、イエス・キリストという小学生向けに書かれた伝記を読んだのですが、そのときに受けた印象が、「よだかの星」を読んだときに受けた印象と重なったのを思い出します。その小学生向けの伝記は、イエスさまの十字架で終わっていて、復活の話はありませんでした。しかし、どのように表現すればよいのかわかりませんでしたが、そのときに受けた複雑ながらも安らかな印象というものが、救いというものであったのだと思います。もし、あのときイエスさまの復活という話が続いていれば、わたしは幻滅しただろうと思います。何にも報われず、ただ大変な思いをして、十字架の上でなくなっていったというところに救いをみたのであって、十字架の後に復活があったというなら、勧善懲悪を説く日本昔話と同じだという印象をわたしはもってしまったと思います。

よだかの星にもありますが、よだかが昇っていった世界は、もう「のぼっているのか、逆さになっているのか」もわからない現実を超越した世界だったのではないかと思います。それは、単に苦しみから解放されて楽になるという世界ではありません。わたしたちの人間の世界は、善悪、美醜、貧富等あらゆるものを二分し、差別区別することで成り立っている世界です。それがわたしたちの生きている世界であって、イエスさまの時代もまさにその通りでした。そのような世界の中で、様々ないのちを殺して食べているのは他の誰かではなくて、実は“わたし自身”なのだという現実に目覚めたときに、イエスさまはご自分のいのちを差し出そうとされたのではないかとわたしは思うのです。イエスさまはご自分が人々のための食べ物、飲み物になりたかった、というか、ならないではおれなかったということだと思います。そのイエスさまの悲哀というか、あらゆるいのちを愛おしむ思いが、聖体となったと思えるのです。それほど、イエスさまのすべてのいのちと連帯するという思いが深かったのでしょう。イエスさまはいのちそのものでおられたから、それが聖体の制定となり、イエスさまの十字架となったのだと思います。

もちろん、このイエスさまの復活や聖体の制定も神学的に説明することはできるでしょうが、わたしたちにとって大切なことは、それが現代社会の中で様々な困難や苦しみを生きるわたしたちにとって、それらがどのような意味なのかということを問うことであると思います。難しい形式だけの教義を繰り返すこと、今までの慣習にしがみつくことではなく、わたしたちにとって、この世界にとって、イエスさまが何なのかを問うこと、いのちとは何かを問うことが大切なのではないでしょうか。

イエスさまは、ご自身をわたしたちにそのまま差し出しておられるのです。「皆、これをとって食べなさい」と。イエスさまは、「わたしがあなたのいのちとなる」といわれたのです。パンとぶどう酒はまさにわたしたちを養ういのちの糧です。その形をとって、イエスさまは世の終わりまで、わたしたちのいのちの糧として、いのちの源として、ご自分を与え続けたいといわれるのです。しかし、そのイエスさまは、そのような生き方をしたわたしを信じなさいとか、ミサは義務ですから必ずあずかりなさいとかいわれませんでした。イエスさまには何も押しつけがましいところがないのです。どうぞ召し上がれといって、自分を差し出しておられるだけなのです。イエスさまの福音は義務ではないのです。ただ、そのようなイエスさまに触れたとき、今度はわたしたちのこころと体が動き出すのではないでしょうか。

わたしたちがそのようなイエスさまと出会うことなく、わたしの飢えを満たし、わたしの願いを満たし、わたしの救い、わたしの癒し、わたしの安寧を求めているだけであれば、ああ、今日はご聖体をいただけてこころが落ち着いた、平和になったで終わってしまうことでしょう。キリスト教を教えとしてだけ学んだだけであれば、そこからは何も生まれてきません。ただ規則を守り、義務を果たし、よい人間となって、その報いを受けるということで人生が終わってしまいます。今日、キリストの聖体の祝日にあたって、先ずはイエスさまのそのようなイエスさまのあたたかさを感じ取ってみたいと思います。

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